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*  2004年 2月臨時増刊 *



ニュースレター

2004年 2月臨時増刊

家族への感謝と今準備している計画との関係

 

 詳しいことは書ける部分と書けない部分があるのですが、今計画していることがふたつあるのですが、方向性とかはOKということなのですが、足立育朗さんから1月31日に『亡くなっていても健在であっても家族への感謝が大切です。感謝・感謝されているかのパーセンテージをチューニングして実行してください。』という主旨のことを伝えていただきました。この『家族への感謝』がふたつの計画にものすごく関わっていて、これがちゃんと出来ていないとことが進まないそうなのです。しかし、この計画と両親などへの感謝って頭で考えるとまったくもってつながらないのですが、関係あるそうなのです。
 ここにきて一番苦手な(笑)避けてきた問題が浮上してしまいました。

 そして翌日(2月1日)、東京から戻ると…往復20時間近い運転で早めに眠ろうとウトウトしていたら、珍しく母親から電話がありました。別にケンカしているとかないのですが、普段からそんなに話すこともなく、(年間一時間くらいかな…)よほどのことがない限り、電話とかしないのですが…。

 『驚かないでね、お母さん入院することになったよ、明日から三週間。』と言うのです。1941年生まれの62才らしい(って親の年齢くらい知ってなさい)手術をするらしく、ただ、ガンとか命に関わるようなものではないのですが驚きました。 ちょっとした怪我や歯医者以外、体が悪いなんて今までなかったひとなので、そんな母親が入院なんて風邪こじらせたと言われても驚いてしまいます。

 母親・信子さんは結構大変な人生を歩いているかと思います。そりゃ、みんなそれぞれ大変かと思いますが…。群馬県出身の(旧姓)和南城信子さんは東京に出て来て仕事をして、父親となる只野守さんと出会いました。守さんは宮城県出身のやはり同じく東京に出て来た組だったのです。父と母は出会った頃、守さんは小さな町工場を作ろうとしていたところでした。あっ、この辺のことは私もまだ知らないときなので、断片的に聞いた話を組み立てています。
 大田区六郷の京浜急行線の踏み切りのそばに工場を借り、最低限の設備機械を準備したら、当時のお金で数千円しか手元になかったそうです。そんなときに二人は結婚したのでした。そんな頃に私は長男として生まれました。二年後に弟・政信さんが生まれ、まったく裕福ではありませんが、幸せな家庭だったです。父親は6人兄弟の五番目で、兄弟6人中4人が東京近郊にいたので、よく祖母(父方の祖父は私が生まれる前に亡くなっていた)が我が家を基点に数ヶ月東京で過ごしていました。母親は三人兄弟で二人は実家周辺にいるのですが、母方の祖母もよく来ていました。

 小学校に上がる前の年、父親は工場を新築し(すごい努力したんだと思います。)そちらに転居しました。同じ町内ですけどね。転居後、下の弟・勇生さんが生まれました。
 小学校に入ってから手を切った、指を折ったという小さな怪我を私は繰り返し、両親に心配をかけてしまったと思います。そして4年生のとき、交通事故にあって両足を骨折し半年入院しました。このことは『VISION TO THE FUTUER』にも書かせていただいているのですが、違う側面からとらえてみます。

 毎日母親は着てくれました。こういうときっていつも以上に甘えてしまいます。通常の生活と一緒に2時間くらい毎日病院に来る(前後の時間を入れるともっとですね)のは大変だったかと思います。弟は2年生と2才。どう考えても手がかかるはずです。朝から家のこと、工場の仕事、そして5キロ先の病院への自転車での往復…どうのようなスピードで走ったら次の信号、その次の信号を青で通過し、踏み切りに止まらずに行ける…と計算して(ちょっと並じゃないですよね)走っていたようです。今の人からすると、そこまでして…と思われるかも知れませんが、お米10キロで200円安いとあれば自転車でどこまでも買いに行く(三人子供がいたらお米もたくさん必要ですよね)ような母親でした。今でも女の人のバイタリティはそれが普通というか、スタンダードに思えてしまいます。余談ですが、ちょっと前に女の子が買い物をして重さ1キロくらいの商品を宅配して欲しいという(電車で10分くらいの距離なのに)ことを言ってたのに驚いたことがありました。10キロのお米をちょっとの値段のために(それは自分たちの食事ですけど)自転車で走りまくる母親でした。
 些細なことですが、こんな我が家の状況だったのでそんなことにも感謝できる環境なのかもしれないです。さきの女の子の立場だったら、きっとどうして10キロのお米を自転車で運ぶこととかは理解するのは難しいことだったのかも知れませんね。

 とにかく、そんなこんなで子供時代には迷惑をかけまくっていました。その後、自転車での事故で入院をしたのにバイクとか心配をかけまくっていました。こちら(子供側は)寝てりゃいいのにと思うのですが、私が戻ってくるまで眠れない(心配で)ようでした。救急車のサイレンが鳴っていると『まさか!』と思ってしまうとよく言ってました。そんな親の気持ちなんて判らず、だいたい朝の5時くらいまであちこち走っていました。(一応、暴走族ではありません。笑)こんな十代後半でした。

 そして、16.7年くらい前(ですからバイクで走ってた頃です)父親が会社を潰して、母親は保険の外交として働くことになりました。やはり自転車で飛び回っていました。父親がすい臓ガン(最初は十二指腸潰瘍と思っていた)になってしまい、当時まだ下の弟・勇生さんは小学6年生。父親が亡くなって母親は大変だったと思います。私は自分がやりたいことばっかりしていて(今もそうなのですが)家族のこと、母親のことなんてまったくと言っていいほど気にかけずにいました。

 父・守さんも大変な人生だった(47歳で死去)と思うのですが、信子さんはそれ以上に大変な人生を送っていると思います。二人には何もしていない、いや、心配をかけたり、迷惑をかけてはいます。
 以前、愛洋子さんに『お父さんのこととか考えてる?』と聞かれたとき、『問題ないよ。僕は全然気にしてないから』というような答えをしました。『考えてないことが問題なのよ』という意味のことを言われていました。まったく、未熟というか『(親のことを)関係ない』と思ってしまう…しょうがないですね。

 まさか、育朗さんから言われた次の日にこんなことが起こるなんて…実はその前の日卓朗さんの電話で卓朗さんの身に起こった『やり残し』の話しを聞かせてもらって、『卓朗さんでも大変なんだァ』と思ってたところに母親の入院の話しがありました。
 この原稿を書いているのは2月2日で印刷予定は2月7日です。母親の手術は4日の予定なので、まあ、本人はたいした手術じゃないと言っているのですが、少しずつ、こうしたことにも取り組んで行きたいと思います。

 当の母親も一緒に住んでいる弟・勇生さんに『お兄ちゃんに連絡しないでいいのかよ!』と言われたから、電話をくれたようで、やはり勇生さんや別に暮らしている政信さんも、今まで病気や病院に縁になかった信子さんの入院にはかなり戸惑っているようです。

 多分、このニュースレターを発送する頃には(2月中旬)に東京へ行こうかと思っています。また、報告いたします。母親・信子さんもそんな健康な人ですので、SODPQPをちゃんと食べてないのは心配です。

 今考えているふたつの計画についても近い間にお伝え出来ればと思います。どうして家族への感謝がこの計画にも重要なのか…また、この計画には多くの方の協力が必要なことですので、みなさまに『お願い』をすることもあるかと思います。きっと愉しいことだと思うのですが、同調していただけたら幸いです。

 しかし、いつもながら足立所長の言葉には感銘を受けます。本当に感謝しなくちゃいけない(こういう表現は嫌いな方っていますよね)ときには感謝出来ず、どうでもいいことには『ありがとう』なんて言っている自分がいます。ああ、やんなっちゃうなぁ。感謝すべき(ちょっといい表現方法がみあたらない)ことには出来ない。大抵、自分の自我と欲を満足させてくれた場合(人)に感謝してしまっているようです。特に親とかには私の場合は感謝してないんです。

 どうでもいいことには簡単に感謝(本当の感謝ではないのかも?)できちゃうのですが…とにかくココに来て一番苦手な問題が浮上してきました。これも自然のしくみの計らいなんでしょうか…。

 

(家族への敬意をと思い、敬称に『さん』を使っています。)


ホームページで閲覧していただける資料が増えました

 


1997年に行われた足立育朗氏と白井常雄氏の対談

 やっと昨年末くらいからホームページの資料の充実に着手はじめられました。そのすべてをニュースレターに掲載するわけにはいかないのですが、この対談のタイトルにもありますように、原点に立ち戻ろうということで、AOAアオバのHARMONYLIFE誌の前身である『AOBANEWS 1997.10・11月号』に掲載されました『特集 足立育朗さんと語る 原点に立ち戻ろう!そして気づき、実行のとき。』の白井常雄氏と足立育朗氏の対談をそのまま転載いたしました。 この時期私たち地球人類が気づきはじめていた頃のようでした。現在はそのカーブはかなり下り坂かと思います。(真地球の歴史のまえがき参照)この対談の中からみなさまにとって何かを感じていただければ幸いと思います。


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