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*   VISION TO THE FUTURE  *



VISION TO THE FUTURE

〜LaPLAYHM an filf〜

はじめに

 いつも未熟な私をサポートして下さいまして、ありがとうございます。このレポートは、内容的にご存知の方や、以前にお話して重複する部分もあるかと思いますが、お読みいただけたら幸いです。
 子供の頃から思っていたことや、私が体験してきたことで、読んで下さった人に、何らかどこかのページかが、役に立ったり、笑って頂けたら、幸いです。
 当初の予定よりかなり多いページ数になってしまい、私もびっくりしています。(読みたいページを読んで頂ければと思います。)
 こんなものを書いてはずかしいじゃないか、とか色々考えました。私も普段、あまり出来ないのですが、本当はこうだなと思っても、世間体やしがらみ、過去から持ち越しているパターン、周囲に変に思われたらどうしよう、利害損得や頭で考えて、どうしても私たちは自分の都合の悪いことを受け入れられないでいるのです。

 しかし気づいているのに、行動しないのはかなり不調和らしいので、メッセージが来るわけです。それでも気づかないと、もっと厳しいメッセージ…状況が来るようです。
 私は頑固者ですので苦労しているので、賢明な皆さんは、軽いうちに気づかれるといいなと思っています。
 私の子供の頃から考えていたり、思っていたことを、いくつかを書いていきたいと思います。お付き合い下さい。


子供の頃

 東京のはじっこ、多摩川の対岸には川崎のコンビナートの煙突が見える、京浜工業地帯の一画、大田区・六郷という町で生まれ、育ちました。両親と弟が二人の五人家族。
 父親は宮城県出身で稲作中心農家の六人兄弟の五人目。裸一貫で上京。母親は群馬県出身で農家の三人兄妹の真ん中。そんな両親の自営している小さなプレス工場の子供でした。
人のことを『○○さん』『○○君』と言うように両親に育てられたので今でも人の苗字を呼び捨てに出来ないのです。(名前の呼び捨てはOK)
 余談ですが小学校の時隣のクラスの先生が生徒を呼び捨てにしているのを見て、『なんて、怖い人(先生)だろう』と思いました。
 
  多摩川の河川沿いのサイクリングコースを自転車で走ったり、多摩川の中州探検や、トンボやバッタを採ったり、ザリガニ釣り、缶蹴り、環八(東京の環状八号線)沿いのスーパーカーを見に行く事が好きでした。
 みんなで『探険』と称して、行ったことのない場所に行くのが大好きでした。自分の知らない風景・町並を見ると、『ここにもきっと、たくさんの人が暮らしているんだろうな』『あの光のひとつひとつに、家族があり、ドラマがあるんだな』と思いふけるのが好きでした。
 自然、言葉の意味、固有名詞の由来、地球の歴史、ピラミッドや古代文明、宇宙、未来のことに興味がありました。
 ヨーロッパ的なもの、(クリスチャンではありませんが…)キリストのお話、ヨーロッパの雰囲気、北欧のウッディな家のたたずまいに暖炉、窓の外には雪が積もり、ロッキングチェア−で揺れている。なんか懐かしく感じます。

人はどうして死んだりするんだろう

 小学生の頃にですが、親戚の人が亡くなったりした時や、ドラマなどで大切な人が死ぬ時『人って何でこんなさびしいことが起こるのだろう』『何のために生まれるのだろう』と思ったりして(あまり深くはないけど)いろいろ考えることがありました。
 病気になって死ぬのも、交通事故に遭い死ぬにしても、年老いて死んでいくにしても怖いし、そんな思いをする為に生まれて来るなんて、哀しすぎるよな。 どうしたらみんなが幸せになれるのだろう?せっかく出会えたのに、別れていかなくてはならないことなんて辛いな、と。
 幸いに私自身には、20歳になるまで家族の死といった経験はなかったのですが…。

子どもの頃見ていた大人の人

 

 家が自営業だったため、社員の人が毎日働きに来ていました。
 世の中には父親がどんな仕事をしているか(旦那が?という人も)知らない人が多いようですが、幸いに親が仕事している姿も見ていました。『人はなぜ働いているのだろう?楽しそうな人、嫌々やっている人のは何故だろう』と疑問が湧きました。
 でもみんな、
 こんなに働いてどうするんだろう?
 家族のために?
 家を買うため?
 そして年老いて死んでいくの?

 そんなのって、何か嫌だな。
 何のために人は生きているのだろう?
 子供のころ、大人になりたくなかった。
 なぜなら、大人ってつまらなさそうだし(笑)なんか大変そうに生きている大人。そんな姿をたくさん見ていました。


星空に憧れて

 
 
 星の名前すら知らないのですが、星空を見ることが好きでした。
 太陽系の惑星、新しく生まれてくる星、現在も爆発している星、宇宙は途方も無く広く、絶妙なハーモニーを奏でて精妙にこの宇宙が成り立っています。 壮大な宇宙に比べたら地球はとても小さい存在です。さらに自分はこの宇宙の中ではメチャクチャ小さくて、とるにとらないんじゃないかと思えてきました。

 今思えば直観だったのかもしれませんが、『地球を含めたこの宇宙は、きっと誰かが創ったのかなぁ?』と思いました。
 大人は何でも知っているはずだから、父親に聞いてみると『お父さんには分からないよ』と返され、大人ならばきっとすべてのことを知っているはず…という私の常識を覆されました。
 子供の自分は知らないことがあっても当たり前。でも大人は知っているはずだ、というのは自分が大人になってもたくさん知らないことがあるので仕方のないことなんだ。とわかりました。


タイムマシン計画!

 

 小学3年生になる春、図書館で『環境問題の本』を読みました。もちろん、子供向けの内容でした。
 『このまま環境が破壊され続けると、人が住めないような地球になり大変なことになってしまう』かなりのショックを受けました。
 当然のように未来がやってくると思っていたのが、かなり厳しい状況が来ることを知ってしまいました。

 『何かしなければならない』と感じてしまいました。
 『家族や友達だけでも助けないと…』
 『どこかへ逃げないと。どこへ?(逃げられないだろう)』

 一番ベストかと思ったのが『美しかった昔の地球に戻って、何とか未来(今の現実)を変えよう』『昔の人達に今の地球の現状を伝えてこのように今の地球のようには、ならないように気をつけてもらおう』…とこんな風に考えていました。

 そして新学期が始まり、クラスの友達10人くらいを集めて地球の未来の事を話しました。
 どこまでみんなが受け取ってくれたのか、解りませんが、かなりみんなに“ウケ”は良く、当時よく見ていた【タイム ボカン】というTVアニメが有ったのですが、これに登場するタイムマシンを作ろう!とみんなで盛り上がりました。

 タイムマシン・メカブトン【注】を作るために近所のゴミ置き場からテレビの真空管や、機械らしきものを毎日みんなで盗んで来ました。
 そのため管理人らしき人に怒られ追いかけられていました。でも僕たちは『自分達の未来のため』というヴィジョンでいっぱいでした。


 友達の内の一人のお父さんの工場で使っていたホークリフトをもらって(きっとおじさんは子供たちの言う事だから、君達にあげるよと、軽く考えていたのでしょう)そのホークリフトをベースに作ろうとしていました。
 半年くらいがらくたを集めて、タイムマシン計画をしていました。


VS(バ−サス)12tトレーラー



 小学校4年生の9月に交通事故に遭いました。友達(通称・ワンくん)の家に行く途中でした。自転車で5分ほどの距離ですが、少し急いであせって走っていました。

 私は自転車でガードレールの内側を通っていましたが、幹線道路沿いにある製罐工場に、左折しようとする、トレーラーがありました。
 車道からガードレールの切れ目(工場の入り口)に入って来るではありませんか!
まさに、よくドラマや映画であるようなストップモーションの画像で私の視野に広がっていきました。
 どうなるのかヒヤヒヤしたのですが、気がつくと私はトレーラーの荷台のそばにいました。
 後でわかったのですが、両足が骨折していたようです。

 周囲に人が(工場の人や通りすがりの人達)集まっていて、自分でも『何があったんだ!』と思ったけど、辺りの人達の雰囲気から察すると大変なことあったらしい、という感じでした。
 私は脚がしびれていました。『きっとタイヤで踏まれたから、しびれているのかな?』『友達が待っているから、早く行かないと』『とにかく立ち上がらないと』と思い、トレーラーの一部に手を掛けて立ち上がりました。しかし脚があまりにも痛くて、蹲ってしまいました。

 工場で働いているおじさんが私のそばに来て、『救急車を呼んだから…。大丈夫か?ご両親は、電話はわかるかい?』と聞かれ、私は立ち上がろうとしたくらいでしたので、意識ははっきりしていました。一通り答えて…。そして救急車の中へ…。

 近所の総合病院(指が折れたりとお世話になっていた)に運ばれました。しかし、もっとしっかりした設備が必要だったために、家から10kmほど離れた(電車で二駅)東邦医大病院へと再び、救急車の乗るのでありました。
 早く友達の家に行きたいのに、こんなに遠い病院まで来てしまい、病室のベットの上にいるし…。周りにお医者さん・看護婦さん15人くらいに囲まれていました。(逃げられない!)
 麻酔がかかっていましたけど、とにかく痛かった。早く帰りたかった。お医者さん達は、何か苦戦しているようでした。私にはもう状況がさっぱりわかりません。何か、左右の折れている大腿骨を引っ張るようです。

(ここからの6行読まない方がいいかもしれません)
 恐る恐る何をしているか見てみますと、大腿骨(もも)のひざの少し上にドリルで穴を開けているではありませんか!この光景を見て『これは痛い。痛すぎる訳だ。』と思いました。
 さらに過ぎたことは仕方ないにしても、もう片足やるらしい!怪我をするのは良いんですけど、痛いのがわかって、穴をあけるのなんて…。とてもそんな行為自体が苦痛です。
(とりあえず、痛い話しはお終いです。)

 そして私はお会いしたことがないのですが、『加害者』となってしまった人は、20代の男性だったそうです。法律上『加害者』となってしまっただけなのですが、彼にとってもショックだったのでしょう。
 私の両親からは『あの運転手は"(子供がいるのが)見えなかった”としか言わない!』『一言も、謝らなかった。』と聞かされてきたのですが、逆に完治することが出来た私より、彼の方が精神的にも社会的にも辛かったのでは…。と思いました。


光の巨人〜ウルトラの星から愛を込めて〜

 六ヶ月にも及んだ入院生活は、とにかく子供にとっては退屈でした。
 1978年ちょうど第三次ウルトラブームが巻き起こりつつある中で、当時小学4年生だった私も、再放送中の『ウルトラマンレオ』『ウルトラセブン』『ウルトラマン』を欠かさずに見ていたのですが、事故による入院のためテレビが見られなくなったのです。
 病室にはテレビは無く、テレビの持ちこみも禁止だったのです。

 現在のようにビデオデッキが普及されていません。もちろん我が家にも在りませんでした。
 でも、どうしてもウルトラマンが見たい!その思いは日に日に増していきました。

 そこで、テレビ放送時の音声だけでも聞きたい。と思い、母親にカセットテープに録音してもらいました。映像の無いウルトラマンに耳を傾ける事によって想像が膨らみました。

 メインの登場人物や、各話に登場する怪獣・宇宙人などは怪獣図鑑などで知識としてデータ−…例えば、どのような特性を持って、どういった武器を使うかなどはわかっているのですが、ストーリーごとに登場するゲスト出演者などはわからないので声のトーンや、他の出演者との会話などで想像する以外出来ません。

 しかし普通に見るのより、22分の中に圧縮されたストーリーの重厚さを認識出来ました。
 そしてシナリオライターの優秀さが、小学生だった私にも感じました。


 ウルトラセブン、帰ってきたウルトラマン、ウルトラマンエース、ウルトラマンレオに起用されている冬木透氏の音楽は絶品でした。
 ドラマの随伴音楽として、画面・ストーリーと一体となった時のハーモニーは、心の奥深くに波紋のように広がっていくのでした。

 当時の私の置かれている状況にリンクしたのエピソードとして、ウルトラセブン38話の『勇気ある戦い』(ハワイでの放送時タイトル・THE BRAVE ONE)というお話しがありました。ストーリーは以下に。
 心臓欠損症の一人の少年・治。彼は手術が怖いと駄々をこねる。ダン(セブンの正体)隊員が見舞いに来るも、『手術にダンが立ち会って欲しい』とわがままを言う。
ダンはそんな彼に『治君、人間の科学は人間を幸せにするためにあるんだ。科学を信じるんだ!』と語る。
 手術当日怪獣が出現して、ダンは病院に現れない。彼は一人で手術に挑んだ、そしてダンはウルトラセブンとして怪獣に挑んで行く。
 怪獣を阻止しないと病院が、治君が危ない!セブンは力を振り絞り、怪獣を撃退する。そして治の手術は無事に成功する。
 麻酔から覚めつつある治少年の前に慈しむような目の銀色の顔が…。
 今、病魔と戦い終えた少年の目には、同じ様に『勇気ある戦い』を終えた、ひとりの戦士が立っていた。

 私は大した手術ではなかったのですが、手術を受ける事が怖かった。そんな私にとってこれは、テレビの中の出来事ではありませんでした。この治少年がうらやましく思い、自分の手術の時もセブンがいてくれたらなぁ、と思いました。(無茶な話しですね)
 でも、この頃から僕の心の中には僕を励ましてくれる【光の巨人】がいました。




中学から高校時代

 高校受験が近づいてもどうも実感がわかず、毎日ギターを弾いて過ごしていました。基本的に勉強は嫌いでした。家では一切しない。母親にうるさく言われ仕方なく一週間だけ受験勉強をしました(1日1時間と決め、それ以上は絶対に勉強はやらない)。

 高校や大学に行く意味って有るのかな、と思っていました。担任教師には厳しいぞと言われたけど公立校を受けることにしました。
 もし途中でやめても、親にかける負担が少ないほうがいいかと思ってでした。(辞めるつもりで受験したから…)

 普段の成績は60点くらいだったのですが、受験の時は五教科平均90点という絶好調でした!。
 しかも前日眠れずにいたので試験50分の内30分は眠っていました。

 それから10年以上経って、株式会社エヴァの但野大輔さんと同じ教室で高校受験していたことが発覚しました。
 内容は少しきわどい(?)ので興味のある方は、私か但野大輔さんに直接聞いてください。
 人は何処かで会ったり、すれ違っているのかわかりませんね。

 しかし入学後3日で、自分にとっては『学校には行く必要ない』と思ったのですが、様々なしがらみのため1年間も通ってしまいました。
 特に古文、漢文、物理が嫌いでした。以前うかがったのですが、足立育朗さん、愛洋子さんも『(学校で習う)現代物理学・化学は何か違う』と感じられていたようです。


言うな!

 中学の頃に多かったかと思いますが、周りの友人の『○○くんにいじめられた』といったような言葉を聞く事がとても苦痛でした。
現象そのモノよりも、そうした言葉を自分にあてはめている友人の考え方が腹立たしかった。
 と言いますのは、『○○くんとケンカした』と言う発言ならば自分もけんかをした訳なので、OKなのですが「いじめられた」と言うことは、受動的と言うか、受身になっているではありませんか!
 そんな時に『言うな!』と叫んでしまうのでした。

 元々は『ウルトラマンレオ』でのモロボシ ダンのセリフです。
 主人公・オオトリ ゲンと青島隊員がパトロールをしていました。そしてレオであるゲンは怪獣が海に潜んでいる事が見えて判ってしまいました。しかしレーダーには何の反応も現れないので先輩の青島隊員には通じませんでした。
 しかしゲンは事の重大さを感じて、隊長を務めるダン(ウルトラセブン)に怪獣がいる事を確信したと伝える。
 ダンはゲンの言うことは信頼していて正しいとわかっていながらも、レーダーで怪獣を捉える事が出来なかったことを言う。
 ゲンもさらに食い下がる「しかし、隊長…」
 そこでダンは『言うな!』と一喝。
 『地球では人間のやりかたでやらねばならないんだ!』

 葛藤の中、それは判っている。だから言うな!…そんな思いで自分に対してそんな風に言うもんじゃない。という気持ちで私も友人達に『言うな!』といっていました。(自分を卑下しているようにイヤでした。)
 ところでこの会話って、実は創意工夫のことを伝えていますよね。本質のみのストレートでは、今のエゴの文化では理解されにくいと言う事でしょうか。


高校を辞めてから

 高校を退学してから10代後半から22才まで、いろいろな仕事を経験してきました。
 高校に通っていた頃から、近所のコーヒー専門店でバイトをしていました。動機は、丁寧な言葉が使えるようにと思い、決めました。
 しかし接客という仕事が合っていたのか、店長達にかわいがられてお店の常連客も同年代から年上の人達でみんな仲良しでした。
 みんなでメニューを考えたり、四季折々のフェア−の企画をしたり忙しいながら、みんなで力を合わせ取り組んでいました。
 いつかは喫茶店を自分でやりたい、と思うようになっていました。正直に言いますと、父親にお金を出して貰うことをアテにしていました。
 しかし父親の事業が失敗して、それどころではなくなったのです。その後、人生の方針というか、自分がどうして生きていけばいいか、わからなくなっていました。
 そして誠実で、たくさんの人から信頼があった父親は、会社をつぶしてから意固地になって、最後にガンになり死んでいきました。

 そんなさなか、何かが違う、と思いながら、自分自身の中にある本質が求める仕事は、と考えていました。


しろいねこ

 小さな白い猫。手のひらに乗るくらいの大きさの猫が連いて来ます。当時、藤沢のアパートに住んでいて、家の中に動物を飼う事が嫌でした。
  その旨を猫に話したのですが、ずっと僕に連いてきて、『この猫を、ひき離そう』と思い、走ったり道を変えて家に帰りました。
 しかし、家のドアを開けるとそのしろい猫がいたのです。汚くなるのがいやなんだ。と言うと、猫はお風呂に入る。(身体を洗っている)
 身体についた水をブルブルっとはじき、僕は話し掛けました。『君は僕の言葉がわかるの?』と聞くと、『ニャン』と答えるのでした。

 これはある日の夢の話です。この話しを高校の先輩にすると、『家の猫が赤ちゃんを産んだ』と言い『猫なんか飼えるわけない』と思い、とりあえず見に行きました。かわいい!その場で思わず、もらってしまいました。


 まさに夢に出てきた、白く小さな猫のようでした。
 名前を火星と木星の間にある小惑星帯のひとつ『ジュノー』から名づけました。その後ジュノーと一緒に生まれた兄弟をもう一匹もらい、彼は『ジュピター(木星)』としました。
 二匹とも真っ白で尻尾が“ボンボン゛になっている猫達です。
 電車などで籠に入れて移動する時、周りの目を引き、まるでウサギを連れているかのように見えていたようです。


火事場のクソ力

 ここぞという時に自分に想像できない力を発揮した事はみなさんありますか?。それを『火事場のクソ力』と呼んでいます。
 前出の交通事故の時に、両足が折れているのに立ち上がってしまった時や、中学の柔道部での都大会の団体戦で『自分が負けるとチームが負けてしまう』と言う時。絶体絶命のピンチに奇跡的に相手の技を返して返し技を仕掛ける。(時間切れで引き分けとなってしまった)
 人は自分以外の何かのため(結局自分のためでもあるが)になんか一生懸命なれるのかも知れないのです。

 最近はキレないようになりましたけど、10代の頃はキレまくっていました。こんな事書いてどうするのだろう、と思いますが…。

 17の頃よくバイクに乗っていました。仕事が終わると友達が待っていて(真冬の夜中12時過ぎ)横浜の山下公園とかに行きました。鼻水も凍るようで指先の感覚が無いくらい寒い。でも走るのが楽しい。
 信号で全く知らないバイクと一緒にゼロヨン(400m)のバトルをしていました。車の間をすり抜け、公道を200キロ近い速度でスリルを楽しんでいました。(族とかじゃないよ。)

 そんな頃、これは夜ではなく、昼間ですが高校が一緒だった女の子(そういう感情は御互い無い)と横須賀(観音崎)まで行った帰りでした。
 彼女は僕の前を走っていた。が、その時!地元のフェアレディZの改造車の助手席から手が伸び彼女の手をつかんだ。

 しばらくその状況が続き、烈火のごとく怒りに燃えていた。『走っているバイクの腕を掴むなんて、しかも女の子の…(恋愛感情なく意識してないけど)』『なんてふざけたやつらだ!』


 もうすでに彼女の手は離していたが、2キロぐらい追いかけていた。『怒りが頂点に達していた』。もう誰も止められない。
 その後の行動は自分でも予想出来ませんでした。50〜60キロで走る自分のバイクを相手の車に突っ込んでいたのでした。

 お読み頂いている皆さんはきっと、『おまえはどうしたんだよ〜』とお考えだと思います。勿論自分でもどうしたものかと思いました。
 なんとその激突する直前に飛び降りて、回転受身をしていたようでした。本当に小学生の時といい守られているんですね。感謝しないと…。
 しかし守ってくれている人は大変ですよね。えらいなと思いました。

 きっとこの事故(?)現場を生で見ていた人はラッキーというか、驚かれたでしょうね。まるで【西部警察(石原プロ)】のようでした。
 無事に敵(かたき)を打つ事が出来ました。しかし全身打撲で翌日は仕事を休みました。
 帰りは勿論自力でバイクに乗って帰って来ました。


 きっと、もう一度やれと言われても出来ません。怖いし。後に分析すれば占星学的に、月の位置と火星の位置によって危ない行動をとりやすかったのこも知れません。でもよく今まで生きてるよな俺…。


西洋占星学と私

 18才の頃に、雑誌に掲載されていた星占いがモノの見事にこれから数週間の事が的中していた(怪我をするとか)のでした。
 それまではあまり関心がなかったのですが…。だって生まれた年が申年で○○という事でしたら、同じ年に生まれた人はみんな同じということになってしまいますよね。そんなバカなということですよね。
 しかし、何やら西洋占星術と言うのは、生まれた時の太陽系の星の位置や現在の星の位置による因果関係を表しているらしいのです。

 元々星には興味があったので、惑星の位置によって重力や、そのほかの影響があってもおかしくないだろう。という事で自分なりに調べて行く事になりました。
 実際一般的に月の影響で潮の満ち干きがあったり、女性の生理や、Lunatic(狂気じみている)とい言う言葉もあるように、人間の感情も強い影響を受けているようです。
 医学的にも満月の日に手術をすると出血が多かったり、赤ちゃんが生まれるのも新月や満月の時が比較的多いようです。しかし最近は陣痛誘発剤など(決して母体や子供にもよくないかと思います)で、病院の都合によりコントロールされている事も多いようですが…。

 そんなこんなの末に、○○座と一般に言われているのは、その人が生まれた時に太陽がいて座ならばいて座、かに座ならばかに座と言われているだけだということです。
太陽以外ほかの太陽系の惑星はそれぞれがそれぞれの星座に関与し、誰一人と全く同じ星の配置の人はいないのでした。
 太陽は個性や生き方を、月は感情の表し方や性格や感受性を、水星は知性やコミュニケーションを、金星は価値観や恋愛観を、火星は積極性や行動力を、木星は智恵、土星は制限やチャレンジを意味しています。
 下の→をクリックすると只野翔太の出生時のホロスコープ(わかる人は、あァこうなんだ。と御笑読下さい)が一応、見れるはずなんですが…。

 そして天王星は約84年、海王星は約165年、冥王星は約248年かけて12星座を一巡します。それぞれ各星座を7年、14年、20〜30年かけて通過しますので、個人の感覚というより世代の特徴があります。
 天王星は物事の見方や独創性を、海王星は物事の観じ方や卓越性を、冥王星は実行や変換して行くという事を意味しているようです。

 しかし、今の西洋占星術も100%というわけではありませんが、私個人に関してはかなり信憑性を感じられました。
 そして私が興味あるのは、『将来どうなるか』ではなくて、『その人の気づいてないセンスや才能』がわかれば、人もっと輝けるかと思いました。そんな事をお手伝いさせていただいています。


父親の死

 前出の『高校をやめてから』の中で触れたのでパスしようかと思ったのですが、書いといた方が良いようですので、この項目はかなり後になって加筆しました。
 父親の事業が失敗してから…。それ以前に兆候があったのですが、記憶では滅茶苦茶身体が丈夫で、歯医者以外行ったことのない人だったと思います。風邪をなっても午前中寝ていると治っている…。だから、頭が痛いから学校に行けない、なんて言うと怒られてしまう事もあります。
 嗜好品としてタバコはずっと吸い続け、お酒もビール一本くらい毎日飲んでいました。そんな健康な人だったのです。

 ある時から父親は周りの人の影響で、今まであまり飲まなかった缶コーヒーや缶入りの飲み物を飲み様になりました。
 ちなみに只野家の冷蔵庫にはジュースというものは無い家庭でした。夏は麦茶、冬は普通に水道水を飲んでいました。
 子供心にジュースの見たい時もありますが、結局甘いので後でお水が飲みたくなるのでお水で良かったのです。今でも水道水で私はOKです。
 そんな生活をしていた人がいきなり甘いコーヒーを飲んでいたので、序々に身体が蝕まれて行ったのでしょうか。膵臓が悪くなっていたようです。胃腸科に通い始めてしばらくして、十二指腸潰瘍で手術をしました。気づいた時には、すでにガンがあちこちに転移していたようです。

 もう治らない(本人は知らない)ので退院して来ても、肉が食べたいとか言っていました。母親もあきらめていました。
 私はその当時の知識をフル動員し、ガンやエイズにビタミンCが良い!と知り、早速薬局に行き「Lアスコルビン酸」なる、白い粉を買って来ました。とりあえずどんな味かと思い食べて見ると酸っぱかった。
 レモンのすっぱみ(?)だけを食べているかのようでした。


 本当はそれどころではないのですが、父親は『酸っぱいから嫌だ』とかわがままを言って【Lアスコルビン酸】を食べてくれない。
 しかし本当の事、要するにこのままだと後三ヶ月くらいの命なんだ、と言うことは言えない。

 誠実でたくさんの人から信頼があった父親は、会社をつぶしてから意固地になってかなりひねくれていた。
 でも死んじゃうと、死んじゃうんだよね。何も出来なくなる。この人の一生って、頑張って働いて会社作って潰して、挙句こんな風にひねくれて死んでいくなんて、何なんだろう?。

 子供の頃に思っていた疑問がふつふつ湧いてきた。

 余談ですがこれは1988年のお話しです。もし今だったら【Lアスコルビン酸】ではなく、名前は言えませんが【AOAアオバ】という緑色の粉と【パパイヤ・クエスト・プラス】と言う沖縄で作られているジュースを無理やりにでも(?)食べさせていたかと思います。
そしてフェシ−ナとム−ルーンを着せて、えっ?勿論スレ−ヌもね。シエンカ・フォロをベットに敷いていたに違いない。
 もっと早く私が気づいていたら、もしくは誰かに教えてもらっていたら、結果は変っていたかもしれない。

 そして病気になってからじたばたするのではなく、日頃から気をつけることが大事。そしてそれだけじゃなく『ハーモニーライフ』を心がけて生きて行けば、きっと病気がない…病気になるような経験が必要なくなっていくのではと思います。
 これは当時ではなく、現在の私の結論です。


エドガ−・ケイシー

 21才の頃にエドガー・ケイシー関連の書籍を知り、直観的に『本当に凄い人だ!』と思いました。様々な種類の本を読みまくりました。

 エドガ−・ケイシ−さんは、20世紀前半のアメリカに生きていた人でした。チャネリングではなくて、リーディングという方法で情報を得ていたのです。
 彼が眠っている状態で、医者からみ見離された病人に必要な情報を的確にサポートしているのです。例えば、『こういった食事をして、この運動をどのくらいして…』というように言葉で伝えてくれます。

 私は疑い深いので(?)もし、このケイシーさんのお話しが『ケイシ−に触れられたら、奇蹟的に病気が治った』という類いのモノであったならば、きっと受け付けられませんでした。(世の中にはたくさんこの手の話しはありますから…もちろんそれも真実でしょうけれど。)
 【奇蹟】とか能力的な部分ではなく、ケイシ−さん自身の人柄が伝わってくる事によって、とても親近感が感じられました。

 ケイシ-の内容は多岐にわたり、病気、健康に関することから、食事、夢、考古学、未来のこと、生き方など様々でした。
 占星術についても『一般に思われているより、大きな影響がある』と言われていました。そして『それを越えているのは人の意志』だとも言っています。(未来は変えられるということかな。きっと)

 たま出版や中央アート出版などからたくさん本が発売されています。とても内容は深いかと思います。 興味ある方は是非ご覧下さい。


アウト・オン・ア・リム

 JR藤沢駅の(家から)反対側を歩いていましたら、ビデオレンタル屋の閉店セールをしていました。
 とりあえず店に入り、何かかっこいいビデオがあれば、と思いトム・クルーズの『トップガン』などを探していました。
 その時、棚から落ちてきたビデオがありました。それが『アウト・オン・ア・リム』でした。

 シャーリ−・マクレーンの本はまだ読んだことはなかったのですが、タイトルだけは知っていました。中古のビデオとして、確か500円でしたので躊躇しないで買いました。
 このビデオの中でシャーリーが体験したことを、自分がこのビデオを手にした過程で同じような体験をしました。

 それは、ストーリーの中でシャーリーが本屋で本を読んでいました。すると、彼女が読む必要のある本が棚から落ちてきたのでした。
 そのシーンを初めて見た時の驚きは忘れられません。私がビデオ屋で体験した事と同じだったのでした。

 内容的にも、ディビット(シャーリーの友人)からのサポートの数々、ペルーのマチュ・ピチュの遺跡や、ナスカの地上絵の美しさ、プレアデス星人の話など盛りだくさんでした。
 このビデオはソニーから発売されていましたが、絶版になっているかと思います。もしも、手にするチャンスがある人は是非見てください。
 
 エドガ−・ケイシー、シャーリー・マクレーンの本やビデオに触発され子供の頃を思い出し、自分の本質が求めることをしよう。と思い始めました。その2ヶ月後に代官山のyoyo(翔卯)で働く事になります。


日本で一番長い面接

 品川プリンスを辞めたのですが、それまでの情報により、代官山にyoyoというお店があることを知り、とりあえず行ってみました。
 たくさんのスピリチアルな本や、水晶などの原石、エッセンシャルオイル、ハーブ、CD、アート…。
 ここ、いいなァ、自分の求めるものがあふれていました。
 自分が欲しい、と言う感覚ではなく、こういった製品を通し人と関わり成長に繋がるような、そんなお手伝いが仕事でしたら…趣味と仕事が両立出来ると思いました。

 スタッフ募集のインフォメーションがありましたので、電話をしてみました。『社長は今、不在ですので夜に電話ください』と言われました。
 再び、夜に電話すると社長が出て、『昼間は忙しいから10時に来てください。』と言われました。変わった会社だなァ、と思いましたが、自分がやりたい事でしたし、やっぱ社長はこのくらいの器が必要かな、と妙な納得をしました。この時間ですと帰りは終電が終わっているだろうと思い、弟の車を借りて行きました。

 あァこういう人が経営しているんだ、という第一印象でした。
 何を話していたのか忘れてしまいましたが、愛さんが足立幸子さんたちとペルーに行った話や、1987年6月5日の午前4時3分2秒に行ったイベント『宇宙に愛のメッセージを送ろう』の話しとか…結局翌朝の5時を過ぎてしまい、空は明るくなっていました。そして始発電車が動いていました。
 面接としては何も決まらず、『また今日の夜に、話しましょう』ということでした。そして、次の日…というかもう、その日の夜ですね。
 二日間に渡る面接(?)が終わりました。


 愛さん曰く、こんなに長い面接は初めてだった。と言っていました。
 当然、僕もそんな長い面接は最初で最後でした。

 余談ですが、私より以前に働いていたスタッフは愛さんのことを「社長」と呼んでいたのですが、お客さん達は愛さんのことを『愛さん』と呼んでいました。
 愛さんに『僕は、なんて呼んだらいいんですか?』と聞くと、『好きなように(?)呼んでいいよ』と言うので、お客さん達と同じに『愛さん』と愛さんの事を呼ぶ事にしました。
 それから(私以降)スタッフになった人は、同じ様に『愛さん』と呼ぶようになりました。たまに冗談で(?)『社長』と呼んだこともありましたが、やはり愛さんは『愛さん』ですね。

 愛さんはとても芯の強い人です。
 愛さんは自分では『私は経営者としては失格です』と言っていましたけれど、一緒に仕事しているとわかります。多分愛さんじゃなければyoyoは経営していられなかったと思います。
特にいざという時の決断力と潔さ、直観で入ったことをすぐに実行してしまう…、本当に素晴らしいと思います。
 そういう人じゃなければ、あんなに無茶な経営やこの後の章で触れるかもしれないヒーリングヒル逗子yoyoなんて建てられるわけないですよね。
 一説には、私を雇用していたことが一番の無謀だったかも知れません。

Vision to the future 2 へ


 

メカブトン 
 名詞。【タイムボカン】に登場する3台のタイムマシンのひとつで過去から未来を自由に移動する。カブトムシの形態をしている。潜水艦のヤゴマリン、万能作業機のテントウキを搭載している。 

株式会社エヴァ
 社名は『(株)エヴァ』という…ビックリするというか、宇宙語の名前を持ちますと、『本当にその決心はあるのですか?』と様々なオタメシが来るかと思いますが、やはり大変なようです(笑)。しかし、そうした方向を決心し、行動していく但野大輔さんや奥さんの淑恵さん、社員のみなさんの姿は多くの人に勇気と行動することの大切さを言葉ではなく、自らのスタンスで伝えてくれています。
  トータルライフサポートの『仕事と本来のその人の役割』という一面から、みなさんのサポートをしているように思います。 どのような仕事をして、社会に還元していけるか…というような事から、考えられていらっしゃる方は、是非、エヴァさんを訪ねてみてください。


所在地 渋谷区恵比寿南1-2-11フォーシーズン恵比寿ビル2F
TEL 03-3719-5255 FAX 03-3719-5257
JR恵比寿駅西口2分 恵比寿駅前郵便局の2Fです。
http://www.evha.co.jp
株式会社エヴァ

人は何処かで会ったり、すれ違っている
 『袖触れ合うも他生(多生)の縁』って言いますよね。昔は『多少の縁』と勘違いしていたのですが、『袖触れ合う〜』も現代社会でしたら、満員電車の中の隣の人も…という意味合いなのでしょうか。

火事場のクソ力(ぢから)
  一般的には『火事場のバカ力』と表現され、火事など緊急時に自分にも思いがけないような力が発揮できたというような意味に使われるのでしょうけれど、キン肉マン(ゆでたまご・作)の中で主人公のスグルが仲間を思いやる時とかに通常の力以上のものが発揮された場合を『火事場のクソ力!』と表現されていたため。


AOAアオバ
 SODは緑茶の葉や麦の新芽など、多くの自然植物や穀物などにも含まれています。
しかし、分子量が大きいために、そのまま食べても、吸収されずに注射でしか採り入れることができませんでした。
 そこで、自然植物の中に含まれる低分子の抗酸化物質を吸収しやすい形に加工して
SOD酵素と同様の作用を持つ食品として開発されたのがAOAアオバです。


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ニュー・パパイヤ・クエスト・プラス
 『結論として、ニュー・パパイヤ・クエスト・プラスの波動的な機能・役割は、つぎの2点に要約することができます。
・高い周波数レベル(おそらく、アストラルレベル・メンタルレベル)にまで作用する
・原子の歪みを調整し、心身の調整・浄化もはか図る』
 というのは、QRSという機械を通してエネルギーを測定・研究されているアクアタック研究室の片岡氏のコメントの抜粋です。
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FALF&ARUT LaPLAYHM 只野翔太


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