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*   VISION TO THE FUTURE 2 *



アーティスト足立幸子さん

 代官山のレストラン翔卯(今はない)では、毎週水曜日に色々なセミナーを開催しいました。1991年の10月のお話です。いつものように数時間前から準備していますと、40代くらいの一人の女性が入ってきました。

セミナーはいつも夜7時に始まりますので講師の方も30分前くらいに来る人がほとんどでした。時計を見ると、まだ4時頃でした。セミナーに参加する人にしては早過ぎます。

 企画担当スタッフがその女の人を幸子さんだと私を紹介してくれました。(代官山のYOYO・翔卯で働き始めて4か月くらいの頃だったので)それまでお会いした講師の人の多くは、『私は特別!』というような雰囲気が漂っている人が多いのに、まったく気取った態度、服装、外見、を感じさせずにいたのが足立幸子さんでした。
 私と幸子さんは、御互い自己紹介をした後で、いきなり(私の掛けていたシルバーのネックレスをつまみながら)『あなたのネックレス汚いわね―』と言われまして、『何だ!いきなりこの人は!』と思いました(笑)が、すぐさまコピーを失敗して作った『メモ用紙』に、その辺にあるサインペンでワケのわからない(?)絵…【僕のネックレスを美れいにしてくれる絵】を描いてくれました。(まして私は頼んでもいません)とても不思議な人だな、と思いました。
 それからしばらく、他のスタッフや幸子さんと話していたのですが、驚くことが起こっていました。セミナーの中で皆さんに『セミナーなどは必要ないのよ』とお話ししていました。それ以降も色んな精神世界の講師の方のセミナーや講演などをYOYOでは開催していましたが、幸子さんのお話しは格別です。

(2018年12月 追記)
これは【VISION TO THE FUTURE】というタイトルで、2001年頃に書いた60Pくらいの冊子の一節です。全体を読んで頂いている想定でのボクのたった一日のことを書いているのですが、『幸子さんとの初めて会った時のこと』を伝えるために、 『このページを読んで下さいね』と伝える場合があります。その場合、当然他の一連の流れは知らないわけなので、誤解を生じるといけないなあと思い、この追記をしました。

興味本位で、『あるがままに生きる』に掲載されている絵をコピーして、『(宝石 などが)キレイになった』『食べ物や水が美味しくなった』、または変化がなかった。などということは、ホントは重要度で言うと低いことなのかと思います。あの時代、『こういう 現象もある』ということを伝えてくれていて、そのこと以上に生き方や考え方を変換して いくことの大切さを伝えていました。現象に捉われたりすることではなく、『本当はどのように生きるのか』を本気で決 心して行動(だから生きるということ)をすることが大切かと思います。

 私自身、若いころにYOYOというお店(スピリチアルなお店の先駆けだった)で働きたいと思ったのも、精神世界やスピリチアルに興味があったからですが、足立さんの得ている情報は、精神世界などとは違う、本質的な内容なんだということを今は思います。きっかけはスピリチアルでしたが、それは非常に自我と欲の強い分野なのだなと思います。

書籍やDVDの紹介しているページをひとつ一つリンクしておきます。

このサイト、このページに書かれていることは私・只野の個人的体験です。

1996年講演会DVD 波動の法則
2002年講演会DVD 波動の法則の実践
2005年講演会DVD 科学とアートと意識と意志
2008年講演会DVD 波動の法則に基づく自然の仕組みの研究成果とその実践
2010年講演会DVD 波動の法則 真地球の歴史
2014年講演会DVD 波動の法則 現実への実践報告

波動の法則

真地球の歴史

波動の法則 実践体験報告

あるがままに生きる  

このサイト、このページに書かれていることは私・只野の個人的体験です。


シャーペンおじさん

代官山・翔卯のとっても、ひまな一日でした。
代官山で、愛さんはパートナー・秋月さん(残念ながら秋月さんは98年亡くなられました。)と住むためのマンションを探していました。
愛さん本人もその存在を忘れかけていた土地。愛さんのお母さんが生前に愛さんのために用意してくれていた逗子の土地に、秋月さんが家を建てる事を提案したのでした。
その建築の打ち合わせが今日だったのです。
カウンターには常連の女の子が二人来ていましたが、他のお客さんは全くいない日でした。愛さんは明日の料理の仕込をしています。
建築の打ち合わせをする人がやってきました。一般のお客さんとは違うので、お茶を出して(出したような気がする…)その後、私はカウンターの二人とお喋りを続けていました。
そのおじさん(建築家の人)は愛さんを待ちながら何か書いていたのか、ず〜っとペンを動かしつづけていました。
ただ一つ、気になったことがあります。それは時々(何回も)そのおじさんが、おしゃべりしている私たちのほうを見ているのでした。
私は心の中で『シャーペンおじさんのことは呼んでないよー』変な人だなァと思いましたが、悪そうな人には見えませんでした。

本当に暇で6時にお店を開けてから、今までの登場人物しか、この日は来店してません。やがて愛さんの料理の仕込みが終わり、シャーペンおじさんとの打ち合わせが始まりました。
打ち合わせ中も、おじさんは私たち三人の方を、たまに見ます。色んな人が、たくさん来るお店(会社)ですが、この光景も不思議でした。知らないおじさんが、チラチラ自分たちを見るのですから…。

原因がやっとわかったのですが、常連のひとりの女の子の名前が【育子】さんと言いました。
愛さんも私もいつも彼女を「育ちゃん」と呼んでいました。彼女に話しかけるたび…、シャーペンの動きを止め、こちらを見ていたのでした。
一緒にテーブルで話し始めた時に、そのおじさんは『私も…子どもの頃から(育ちゃん)と言われてたんで…』『声がする度、自分が呼ばれている気がして…』と、ドッとみんなから笑いがあふれて、変なおじさんだなーという疑問が晴れました。
常連の二人も幸子さんのアートやお話しが好きだったので、『へぇ幸子さんのお兄さんなんですか〜』という感じで、この後は色々な話をして代官山の夜は更けていきました。



アトレ大井町yoyo〜金色のエネルギー空間〜

 JRの駅ビルからyoyoに出店の誘致がありました。代官山は街の雰囲気はいいのですが、はっきり言って固定費が高かったのです。
 そんな最中、駅ビルであれば多くの人に利用してもらえるショップとなるはず。私は出店に賛成でした。

 Yoyoのようなお店を駅ビルサイドが欲しがるということは、喜ばしいと思いました。世間が求めているのです。
 しかし、これ以上店舗を出す余力はyoyoには大変です。駅ビル担当者は愛さんに何度も断られても、あきらめませんでした。
 その甲斐があって、愛さんも(あきらめて?)大井町に出店することを決心しました。もうその時はフロア−の配置が決定していたのに、担当の彼はyoyoの場所をとてもいい位置に確保してくれました。

 やはり店舗の内装設計はシャーペンおじさんに。もとい、足立さんにということで、無理を言って設計していただきました。
 内装工事完成後、オープン前の駅ビルに忍び込んで来ました。図面では見ていたのですが、yoyoの空間は全て、金色に輝いていました。

 オープン後、足立さんに『大井町yoyoの形態装置・FALFとしての役割は、どういうのですか?』と伺いましたら、『大井町アトレのyoyoさんは(そこに)人がいても、いなくても、常に愛と調和の振動波を受発振しているんですよ。今の地球の人達には充分過ぎるほどのサポートになりますよ。』と言われました。

 実際に私も、朝から調子良かったのに30分程いただけで、浄化された時がありました。汚いお話しで申し訳ありませんが、いきなり吐き気と下痢になってしまったのです。
意識変換するとからだの状態が変わり、調整されることが良くあるようです。(何か違いますよ。って教えてくれている場合もあります。)
 この日は午後に代官山で人と会う日でした。結局、ほかのスタッフに代わってもらい、愛さんに迎えに来てもらい代官山に行きました。

 一年後、隣のカメラ屋さんが撤退して、テナントが空いていました。すかさずに駅ビルの営業部に状況の確認をすると、『次のテナントの候補は何件かありますが、まだ正式には決まっていません。』という答えが帰って来ました。
 私は大井町の店舗が広くなれば、代官山をクローズ出来るだろうし、駅ビルサイドにとっても良い話ではないかと思いました。

 再び足立さんにも確認して頂きますと、yoyoが拡大するのは、OKと言う事でした。 元々のカメラ屋さんの内装を活かして、設計をして頂きました。 店舗面積が広がった事と同時に、『広い範囲の振動波』に対応出来るようになったようです。

 余談ですが、『アトレ』という駅ビルのネーミングはアトラス、アトランティスと通じる名詞だと思うのは、私だけでしょうか?
 ちなみに誘致を勧めていた、駅ビル担当者はアトラス出身だったかと思います。


エキサイティングな日々

 1993年の6月に代官山のスタッフ(製品担当、経理担当、セミナーの企画担当)の三人が同時に退社することになり、私は今まで経験したことがない業務を(経理関係を除いて)担当する事になりました。
 実際に今まで二人で分担していた業務を、トライする事になりました。しかし、自分でやりたい事でしたので苦にはなりませんでした。

 自分なりのスタンスとして、流通業・お店であるならば、どうしたら現実的に成り立つか、ということを考えていました。
 そして、何のためにというベースにあるのは、『素晴らしい製品の流通』と『気づきのお手伝い』の二つでした。

 ひとつめの『素晴らしい製品の流通』ですが、取り扱い製品の吟味が必要でした。とにかく調和のとれた製品を提供したい。
 あまり得意なことではないのですが、帳簿を見て『これじゃ利益でないよな』と思いました。
現実に会社やお店をやっていますと、お金が必要です。当然ですが…。
 『利益を出す事』が悪いことではないのです。別に利益をあげるのが最優先ありません。
 しかし数字の苦手な私からみても、yoyoはずっ〜と赤字でした。
 製品を仕入れるのにも、何か企画して現実化するのにもどうしても、今の文化では『お金のエネルギー』が必要です。

 この件に関して、二つのアプローチを取りました。ひとつは製品仕入れ原価を下げること。もうひとつはお客さんを増やすこと。
 こういった風に書きますと、読まれている皆さんにとって、どぎつく感じるかも知れませんが、お店や会社であれば売上の何%かがテナント料となり、他に人件費、光熱費、その他諸々の費用がかかります。


 そうしまと、扱う製品の定価に対してこのくらいの仕入れ値じゃないと扱えない。ということがあります。『この価格だと、売れれば、売れるほど赤字』というラインがあります。
 自分たち(YOYO)だけじゃなく、製造会社や製作者も同じ様に利益がないと成り立ちません。そこで閃いたのは、流通量を増やし製品仕入れ原価を下げてもらうことでした。
 製作している人もたくさん(自分の作品などが)売れれば嬉しいですし、多くの人に喜ばれる。『この流れで行けば間違いない!』と確信しました。

 リスクを背負って(要するに今まで10個売れていたものを20個にする…とか)それは、それだけの製品に対する信頼が必要です。お客さんに対する責任を持つということです。
 しかしそれらの条件をクリアする製品がありました。特に後の『FALF』というものとの相性が良かったのではと思います。そして様々なステップを踏んで、調和のとれた製品と自然のしくみの学びを生活に取り入れる。という事…。

 結果として、『素晴らしい製品の吟味』にも繋がる事となるのでした。
 より多くの人に役立とう。私の中では、例えるならば『100人から10000円づつ』より、『1000人から1000円ずつ』の方がいいかなと思いました。多くの人に役立つ。そんなイメージを大切にしました。
 早い話し、客単価を上げるのではなくて、より多くの人に素晴らしい製品を通して、ハーモニー ライフと言いますか、調和のとれた生活を送れるような、お手伝いが出来るように。と発振しました。
 『販売』と言うサポートを越えたところに何かある。人をサポートする。人をサポートする人をサポートする…。そして…。


星に帰った幸子さん

 もうひとつの課題の講演会などについてですが…。
 代官山での幸子さんの講演会は92年11月を最後としていました。
 しかし、『幸子さんの講演会はやらないんですか?』というリクエストも多かったので、ビデオ収録の目的と合わせて講演の依頼をしました。確か93年7月に予定したかと思います。

 講演会の企画担当になって、必要な気づきのサポートになるセミナーが出来る人として真っ先に、思い浮かぶのは足立幸子さんでした。
 しかし、本人は『私はもう個人のヒーリングアートも描かないし、お話もしないの』と言っていました。
 私としては『どうしよう』と頭を抱えてしまいそうでした。ま、実際には忙しくてそれどころじゃありませんでしたけど…。
 でも幸子さんが今回、講演を引き受けてくれたのでラッキーでした。

 6月1日に代官山で竹沢イチローさんという人の個展と、そのオープニングパ−ティ−が行なわれました。幸子さんもイチローさんの友人として遊びに来ていました。
 個人的にいろいろ問題を抱えていた直後(いつもですが)の私に、何げなく幸子さんが『あんたもう大丈夫よねェ』という脈絡のないことを言われていました。『はァ?』という感じでした。

 このパーティーの中、何故か幸子さんはイチローさんが描いた絵のそばにずっといました。
 その絵は古代エジプト風の“死者が次のステップに旅立つ゛という感じで、小さな小船に男の人が横たわっているようでした。


 そして3週間後…。6月20日。幸子さんの常設ギャラリーの『スペースSACHI』のオ−プンの日が来ました。
 私は大井町yoyoに朝からいました。『スペースSachiさん、そろそろオープンかなぁ』と考えていますと、愛さんからの電話です。
 『翔太、驚かないで聞いてね。』
 『ウン』
 『幸子さんがね、…幸子さんが宇宙に帰ったの』
 愛さんの言葉の意味を受け止め、受話器を持ちながら泣いてしまいました。電話の向うでは愛さんも泣きはじめてしまいました。ニューヨークで個展をやるとか、逗子の建物の完成が楽しみって言ってたのに…。

 私は愛さんと秋月さんと一緒に、お通夜と告別式に参加させて頂きました。そういった席にカメラを持ち込むことは失礼なのかもしれませんが、どうしてもカメラを持って行きたくなりました。
私は喪服に幸子さんのアートTシャツを着ていきました。幸子さんなら許してくれそうでしたし…。
 ちなみに愛さんは確か黒い上下に幸子さんが画いた十二一重(?)の紫色のを羽織っていました。ひときわ目立っていました。秋月さんは言うまでもありませんが、一般的な喪服でした。

 告別式の最中、あまりバシャバシャとシャッターを切るのは、どうしたものかと思い、躊躇していたのです。
 納棺の直前に足立さんに『翔ちゃん、幸子を撮ってあげて』と言われたので、『あァ、いいんだ、じゃあ一生懸命撮らせてもらおう!』と思い、棺おけの中で眠っている幸子さんを、みんなから献花されている幸子さんを撮りました。本当に安らかな、優しい顔をしていました。
 その時の写真は、愛さんと育朗さんの手元にあるかと思います。


(個人的解釈)

 これはあくまでも私の解釈ですので誤解しないで欲しいのですが、献花している時の足立さんは微笑んでいました。
 お母様は号泣されていたのですが…。本当に誤解しないでください。私の観じた感覚なのですが…、
 きっと育朗さんは『幸子おつかさま。そしてより大きな役割をやってくれるんだね、ありがとう』と思っていたように…わたしは勝手に思いました。
 『育朗さんと幸子さんって、本当にエクサピーコでコミュニケーションしているんだなァ』と思いました。

 なんか今も、幸子さんがたくさんの人をサポートしているのだな〜、と思う瞬間があります。
それは【誰かと初めてお会いするとき】です。この出会いはきっと…幸子さんが、サポートしてくれているんだろうなぁ。思わず胸に込み上げてくることがあります。
 幸子さんに限らず、本当にサポートしてくれている人たちはとても慎重に、『この人にはあの人からこういう形でこういったタイミングで情報が届くと受け入れて貰えるかも…』という風に一生懸命手伝ってくれているようです。何度も裏切られても懲りないで。
 こうした体験は、みなさんも個々の体験されているかと思います。幸子さん。(だけじゃないけど)ありがとう。

 『あんたもう大丈夫よねェ』幸子さんの言葉が後になって観じる…。
 幸子さんありがとう。…でもごめんね。俺まだまだどうしょもないからさ。


第一時遭遇

 人間死んでも終わらないし、[魂]は永遠で過去世や来世もあると思っていました。
そして他の天体にも人が暮らしている。とも思っていましたが、これは受け入れられない。ということを足立育朗さんから言われました。
 『地球にいる人の80%は他の星から来た魂です。』『翔太君はプレアデス星団のケラエノが出身星ですね』ドヒャ〜っていう感じでした。
 まさか自分も地球人じゃなかったことがあったなんて。
 でも、受け入れるしかないような事がこれから起こるのでした。

 秋月さんは、酔っ払っていないといい人です。でも酔っ払ってない時はあまりありませんでした。(笑)
 夕方から夜にかけて、代官山のマンションで空を観ていると、UFOがよく来ていたそうです。私も見たい!今度来たら教えてと頼みました。
 『今UFOが来ている!』という電話で、マンションに向いました。
 窓から見える雲の向うが楕円形に明るいのです。
 しばらく二人で観ていたのですが、その光はマンションのベランダに迫ってきます!。部屋全体を包み込むような大きな光でした。

 まるでウルトラマンダイナの主人公アスカが、初めてダイナになった時のように、大きな光に包まれました。(再びウルトラマンネタ!)
 本当に一瞬の出来事でした。もう光はどこにも無く、ただの部屋。空の雲も何事もなかったかのような顔をしていました。二人で顔を見合わせて唖然としていました。秋月さんもこれは初めてだったようです。

 以来、何かUFOさんが来ている事が感じられるようになりました。一生懸命サポートしてくれているのかな。懲りないで…。
(私の場合はキーンと高い周波数の金属音の様な音が聞こえます。)


建築現場

 92年末に愛さんの車を預かりました。
突然だったので、どこに行こうというアテもないので、今までに三回位連れて行ってもらった“逗子”の建築現場に行きました。
何となく行きたいな、と思って行きました。
 建築現場のフェンスを越えて、コンクリート打ちっぱなしの建築中の建物にしばらく座っていました。
勝手に入るなんて、皆さんはしないで下さいね。(人の家には勝手に入らないようにしましょう)


足立幸子さんを送る会

 講演会の約束を残し帰ってしまった幸子さん。もうすでに、講演会の案内はたくさんの人の手に渡り50人程の予約が入っていました。
 どうしたものかと思っても、幸子さんはもういないし、講演会は出来ません。幸子さんが帰って、2週間後くらいでした。

 急遽愛さんと相談しました。
 みんな幸子さんが好きだったし、本人はいないけど(?)せっかく予約していた人は当日代官山に来る予定でいるわけですから何かやってもいいかもしれない。
 そして思いついたのは『足立幸子さんを送る会』でした。
 とにかく、予約していた人を中心に電話で幸子さんが亡くなって、講演会は出来なくなった事…。そして、幸子さんに感謝を込めて送りたい。そんな会をやりましょう!という趣旨を伝えました。

 講演会の予約されていた方のほとんどの人が来てくれました。当日、育朗さんもお忙しい中、来てくれました。


金属音

 再び翔卯のひまな日でした。念のために書きますが、毎日ひまだった訳ではありません。ドラマとかでも、事件がある時だけストーリーになっていて、きっと平穏な日々もあるのでしょうけれど、それだとドラマとして、面白くないので放送と言うか、作らないと思います。
 そして本編です。8時半をまわる頃に欧米女性7人での来店がありました。とりあえず、オーダーを作り終えました。コミュニケーションと言いましても、愛さんも私も殆ど英語なんて話せません。

 ちょうど代官山では、UFOに夢中になっていた頃でした。言葉は通じないけれど、プレアデス星団(昴)の写真をみんなで見ていました。
 愛さんが『私はここから来たの!』写真の中のケラエノ[注]を指差しながらジェスチャーで伝えると、7人のうちの何人かが、『私はここ』と写真の中の星を指差して示しました。

 言葉はほとんどお互いに理解できないのですが、楽しい出逢いでした。この頃、私はUFOを良く見たり、写真にとったりしていました。
 この日に限らず、『あっ、来てる!』というサインがあった時はお客さん達と一緒に、お店の外に出てみんなでUFOを見ていました。

 その日も“キ−ン”という[音にならない音]が聞こえてきました。この[音にならない音]が聴こえる時には80%くらいの確立でUFOを確認していたのでした。
7人の人達に『今UFOが来ているようなので、星空を見に行きませんか?』と誘い、お店の外に出ました。
 さて、この空のどこに来ているのだろう?。私が探すまでもなく、みんなが見つけてくれました。ひととき夜空と戯れていました。

登場人物紹介(金属音〜ぶちかまし)
 若林 リアンさん
  クリエーター。現在は1児の母。「あるがままに生きる」の英訳本「To Live As We Are」の編集をされた。日本在住。
 ジュリア ブラッキンさん
  リアンさんの友人でハワイ在住の女性。コスモテンの『プレアデスプラスかく語りき』のあとがきに登場。
 ミケラ ケネディさん
  リアンさんの友人。ライター。立花隆さんと関わられていた。


新たなる息吹

 幸子さんの講演会中止の案内や、スタッフが辞めたりでテンヤワンヤしている代官山でした。そんな代官山にある日…。
 幸子さんが、亡くなる前に『ある食品会社さんの製品のパッケージをデザインさせて戴いたの』と言われていたのですが、その完成したモノを拝見する機会がありました。

 いつもニコニコしてとっても愛想の良い、当時20才くらいの男性が、『いや〜本当にお世話になっています。』(何もお世話してないんだけど…by翔太)とやって来て、『たいしたモノじゃありませんが…』と幸子さんの描いたパッケージの箱を何個か置いていきました。
 私は『えっ?これ貰ちゃっていいんですかァ?』と聞き返すと、『いや〜ぜんぜんつまんないモンで〜』とニコニコした笑顔で彼はいました。

 私のイメージ的には、夏休みとかに親戚の家で会うことのある【同年代の親戚=いとこ】と会ったような感覚でした。

 彼からもらった幸子さんのアートの箱を開けると、インスタントコーヒーとか何かのスティック状で、中に緑色の粉が入っていました。
 お菓子のようなモノを期待していた私は、期待を裏切られました。
それは例えるならば、きな粉のような味でした。体に良さそうな味かと思いました。



プレアディアン

 『金属音』には、後日談があります。
 その話しを愛さんが足立育朗さんにしましたら、なんとこの7人の中に“ボディを、ともなってきたプレアデスの人”が二人いたそうです。(要するにエクサピーコさんもボディもプレアデス星人。)
 思わず『俺(愛さんと一緒に)宇宙人と会っちゃってたのかよ』『どうしよう』と思いました。
それから何日か過ぎ代官山yoyoにいますと、7人の内の一人(後でわかったのですが若林リアンさん)が来ていたのでした。

 声を掛けるにも、さすがに『プレアデス星人ですか?…』とは聞けません。『この前のメンバーの中にヒーラーとかサイキックな人はいますか?』と聞いたところ、ジュリアさんとミケラさんを紹介して頂くことになりました。
 二人とも地球人(?)ですが、とっても素敵な人達でした。

 その後、ジュリアさんとミケラさんには、テレポーテーションのワークショップを依頼しました。
『yoyoでのエキサイティングな日々』の中のもう一つのテーマ『気づきのお手伝い』の一つとして、こうした形で、実現して行くのでした。

……テレポーテーションワークショップとは?……
 ライトボディをある宇宙空間(その時意味のある天体)に移動させるなどのワークショップ。
 内容につきましては色々な事がおこったのですが、興味本位だと危険だったり、誤解を招きそうなので今回はパスします。


合衆国への旅路

 YOYOでの仕事の一環で、アメリカに日本では手に入りにくい鉱物の原石などを中心に仕入れのため合計3回ほど行きました。
 コロラド州に2回、アリゾナ州に一回。最初の渡米の時、テキサス州に少しだけ寄りました。

 海外旅行は友達とサイパンにダイビングに行ったきりで、英語なんてわからないですから、かなりある意味エキサイティングでした。
 初めて行った時は原石の買い付けと同時に、クリスタルボールと言う水晶を原料とした楽器(と呼んでいいのかな)を探してくる為に、コロラド州とテキサス州に行きました。
 日本国内で現地のホテルの予約は取れず、まァ現地で探すという形でデンバー空港につきました。何故かこの町のホテルはほとんど予約で埋まっていて困り果てていたのですが、タクシーに乗って『あなたの知っている所でいい』と言ってとりあえずその日のねぐらを確保しました。

 そして本格的には明日からと思い、町の散策に行きました。
 この時に大きなミスを犯していました。本屋で地図を入手して明日からの事を考えてとりあえず好き勝手に歩きバスに乗って移動しました。
 夜になり帰ろうと思った時、自分が泊まるホテル(モーテル)の名前を忘れてしまったのです。ちなみにモーテルと言うのはモーターホテルで車で旅行する人を中心にした安いホテルのことです。
 夜の10時頃かなりブルーになって町をさ迷っていました。
 だってタクシーとか東京みたいにつかまえられると思っていたのが走っていないんですよ。
 タクシーに乗っても名前忘れているのでどうしょも無かったのです。
 大きなホテルのロビーの人に相談したらタクシーを呼んでくれた。あっ、アメリカではこうしてタクシーに乗るんだ。と知りました。


 町の端から端まで探して、やっと帰ることが出来ました。
 そしてその日は、眠る事が出来た。
 しかし初めてのアメリカと言う事もあってか、とてもそのモーテル造りに不安に感じて、次の日の朝からもう一度宿探しを始めました。

 中堅ホテルは満員。とにかく(昨日とは)違うところ、安心できるところが欲しかった。食事をする場所を探しながら考えていた。
 【○○ツーリスト(英語で)】という看板を見つけたので入っていくと『CanIhelp You?』(これは何かしましょうか?という意味かな)旅行会社ならばホテルのこと知っていると思ったわけです。
 しかしそれは、このデンバーから例えばスイスや、どこかへの旅行を提案する会社だったのです。
 でもこの会社の責任者らしき人は、自分の業務外なのに、あちらこちらに電話をして、B&B(ベット&ブレックファースト)を探してくれました。とても良い人でした。
そこはとても心地よく、他に宿泊している人もオーナーも親切でした。

 これから数日間は朝起きて、シャワー浴びてオーナーや他の宿泊者と一緒に朝食をとり、仕入れに出かけて夕方帰ってくるという生活が続きました。そしてデンバーからテキサスに向う日になりました。
 日本から、クリスタルボールを扱っている人には連絡がとれてあるはずでした。B&Bのオーナーは念のため心配だからと言う事で、電話をいれてくれると…。なんと電話の向うでは初耳だと言っている。
 オーナーが『デンバーからテキサスに向って、SHOWTA TADANOと言うJAPANESが行くから宜しく』と伝えてくれた。
 この直後、150万円分くらいの領収書をなくしてしまった。日本に戻ってから怒られたのは、言うまでも無いですね。


 テキサスの指定されたホテルに着くと、セドリック氏からの伝言で『今日はゆっくりしてくれたまえ』という事と『次の朝迎えに行く。真っ赤なキャデラックに(SHOWTA)というプレートを持っている。それが私だ。』という感じだったのでいつものように散策していました。
 アメリカでの食事に苦労していました。そろそろ飽きています。
 日本でもおなじみの【デ○ーズ】の看板があったので入りました。知っている名前と言うところで安心したってトコです。

 このデ○ーズでさっきまでいたデンバーとは大違いなことがありました。(そんな大げさではないけど…)アメリカ南部と言う土地柄でしょうか、なんと白人と有色人種で席が分けられていたのです。
 『人種差別っていうのはこういうのもありか〜』と思いました。他は普通だったのですが。
でもテキサスでもそういうのは、【デ○ーズ】だけでした。デ○ーズ関係者の方、気を悪くしないで下さいね。

 翌日の朝ホテルのロビーに、昨日の約束通り赤いキャデラックでセドリック氏はやってきた。(プレートを持って…)
 肝心のクリスタルボールは一つひとつ音色が違うのです。セドリック氏は悪気ではないのですが、今あるのじゃだめか?というけれど、やはり必要な音が無ければ…。『愛洋子カスタムセットが必要だ』とかかなり無茶な英語でコミュニケーションしています。セドリック氏もこちらの主旨をわかってくれて、何とかこぎつけました。
 クリスタルボールは(大小10個くらいあるので)持ち帰れる量ではなかった。軽トラック一台くらいの梱包でした。愛さんは持って帰ってと簡単に言っていたけど、はっきり言って無理でした。
そんなこんなで、まァ何とか無事に日本へ帰って来れました。


第一印象

ジュリアさんとミケラさんの二人に、足立育朗さんがどうしてもお話し(意見交換)する必要があったようでした。
 代官山でリサ・ロイヤルさん(プレアデスのアトラスにいる人とコミュニケーションしているアメリカ人女性)の講演会が終わってからのことです。
 東京・青山にある大きなお家に、ジュリアさん、ミケラさん、リアンさん、愛さん、秋月さん、足立さんそしてリアンさんの旦那さんと(他にも大勢いた)で伺いました。

 どなたの家かわからないのですが、茶色い猫がいて一緒に遊んでいました。猫と遊んでいると不思議なことに気づきました。
 この猫には“爪”が無かったのです。驚いてリアンさんに尋ねると、欧米の習慣だということ。猫の名前は『ブラウニー』だそうです。

 足立さん、ジュリアさんとミケラさんの意見交換の為に、日本語と英語の通訳ができる人が必要でした。
 このメンバーでその両方に長けている人は、今日初めてお会いしたリアンさんの旦那さんしかいませんでした。

 リアンさんの旦那さんは、日本人で東洋医学の治療家で、和服にぞうり姿というスタイル。長いひげの人でした。
 この人はリサさんの講演会でも、そこまで突っ込んだことを質問を普通するか〜(確信犯?)という感じでした。まァあまり深く関わらないように気をつけようと思いました。

 これが何かのカンチガイ?悲劇の…いや、運命の始りでした。次章『ぶちかまし』に続きます。


ぶちかまし『第一印象』続編

 通訳を引受けたリアンさんの旦那さん、若林明彦さんなのですが、あの頃の若林さんは、今の若林さんではなかったのでした。
 足立さんの慎重に穏やかに話すそぶりが、若林さんにイライラを募らせ、逆鱗(げきりん)に触れ、とうとう逆切れしてしまいました。
 おそらく若林さん以外、その場にいた全員が足立さんの言う事に共感を得ていたと思います。
 きっと若林さんもエクサピーコさんはコミュニケーションしていたはずです。しかし、若林さんの顕在意識は若林さんの口を通して、叫び声となっていました。

 『てめェ、宇宙のためだか何だかわかんねェけど、女の腐ったのみてィにグチグチ言ってるよ−だと、宇宙のための仕事なんか出来ね−ゾ!バカヤロー!』

 2.3秒の沈黙…。
 『何か勘違いされていませんか?』落ち着いた口調で足立さんは若林さんに問い掛けました。
 若林さんは(この人ヤバイかも…ここまで言われて、この物腰。足立育朗って人は大バカか天才か?…でも、どうしても馬鹿には見えない…。えーい、あやまちゃおう!)と逡巡したそうです。
若林さんは謝りました。平和が訪れました。

 次の日、若林さんは足立さんに『事務所に遊びに来ませんか』と言われ、色々教えてもらったようです。
 その後、若林さんは白井常雄会長や、白井圭子社長、yoyoの愛さんや秋月さんたちとの交流が盛んになっていきました。


 続いての“ぶちかまし”です。
 ある夜、ヒーリングヒル逗子yoyoで秋月さんと若林さんは遅くまでお酒を飲んでいて、かなり酔っ払っていました。
 日頃からの蓄積(何の?)もありまして、秋月さんと若林さんは同調して増幅しあって、かなり危険(!)な状態になっていました。
さあ早く逃げとこ−と思ったのですが、矛先が私の方に向いてきて、若林さんに散々問い詰められて『何でもっと仕事を頑張らないんだー』とか言われていました。
 『でも、(あの頃は)一ヶ月に400時間近く仕事してたし、どうして何にも知らない若林さんにこんな風に言われなきゃいけねえんだよー!』と心の中で思ったけれど、状況があまりにも不利だった。二人ともかなりに酔っていましたから…。

 挙句、若林さんに何回もビンタをくらって、秋月さんは『よくやった若林くんはサムライだ!』とか言っているし、愛さんも『翔太をああいう風にしかれるのは若林さんだけです。』だってさ。
 『本当にまったく、感謝なんて出来るかよ。こんな人が治療?とんでもない。足立さんに【意識変換により病気の治療をしている人】(波動の法則213P参照)と言われているらしいけど、この人はろくでもない人だ。』と思いました(笑)。

 でも、それから一年後に若林さんは『以前、翔太さんに大変失礼なことをして申し訳ありませんでした。』と謝って来られたので、純真で素直な人だと知りました。
 実際に若林さんの治療師としては、今までに延べ4万人も治療に携わられた方なので、治療師としてもとても信頼できる人です。いつもみなで(その中心として)バカ騒ぎしていますが、器の大きい人です。


待ち焦がれてたスィエポン エヴァ

 半径500mの電磁波・磁気波を調和のとれたアナログの振動波に変換する形態装置で、純度が99.9999%のチタン製の(やけに説明的な文章で心苦しい)スィエポンエヴァが96年12月に発売されました。

 初めてスィポンエヴァの実物を見たのは、96年10月に行なわれました船井オープンワールドの会場でした。展示してあるスィエポンさんは、製品となっているのとは違います。台座との接合が製品はチタン製のネジですが、これは台座が溶接していました。

 本当に、何か、ありがとうって感じで、もう早く日本中に、世界中にたくさん、一緒に頼むよって感じで、もうウキウキで、『ご機嫌だぜ〜』という感じでした。もう文章としては、成り立ってなくても、いいや!
 より多くの人達がこの必要性に気づいて、一刻も早く社会全体としてより調和がとれていく。そんな希望をスィポンエヴァの12個のリングの向うに観ていました。本当に待ってました!という気分でした。

 形態波動エネルギー研究所が、説明してくれる日のお話です。当日、その前に私は他の用を済ませ、その間に愛さんは足立さんと打ち合わせというスケジュールでした。さあそろそろ終
わったかなという頃に樹生建築研究所に電話を入れました。すると、愛さんが『まだ食事してないのよ』と…、『え〜どうするんだよ〜』と思いました。スケジュール組めないんだよな〜、ホントに。


 こんな事は日常茶飯事。当たり前なので、驚きもしません。『もし食事まだなら、どうぞって、足立さんがね〜』ということで、ラッキー!
 幡ヶ谷の昔ながらの田舎風の定食屋で、食事をしました。
 何か足立さんもこの後の予定がつまっているらしく、足立さんと建築の仕事をしている加藤ナルミさんが、『所長はいつも約束とか忘れるから本当に大変なのよ』と『僕も似たような状況かな』…。
 まったく二人とも(愛さんと足立さん)変なところが似ていますね。

 そんなこんなで、大幅に遅刻して護国寺に到着した時にはもう終わっていました。愛さんはいろいろ質問を用意していたようですが、『こう』というのではなく、『もっと感覚的なものが大切』…。
 スペースSACHIの武藤さんが、『設置してくれる人の中で必ず“核”になっていく人がいると思いますよ』と言われました。
 これが後々の伏線になります。このセリフは、要チェックです。

 たくさんの方から電話などでの問い合わせを受けましたけど、10ヶ月間に(97年の9月にyoyoを辞めた)私がお話ししたことは、パンフレットに書いてあることだけでした。
 ただ『自分としてはどうしたいのですか?』ということを皆さんに伺っただけです。お話した殆どの方は『是非(スィエポンエヴァを)設置したいので、予約します。』という答えが返って来ました。
 コミュニケーションが未熟な段階では、工夫が必要かと思いました。
 このエゴの文化の中で、はっきり言ってチタンのオブジェに20万円を投資出来る人って、そんなにいないのではないでしょうか。
 もし、何も情報が無く実物もしくは写真で見ただけで20万円出せる人は、とても気づきの深い人か、変な人のどちらかと思います。(ジョークです)


翔太流現実化のステップ

 10ページくらい前ですが、中途半端でほったらかしになっていることがあります。『素晴らしい製品の流通』と『気づきのお手伝い』。
 ひとつめの『素晴らしい製品の流通』については、半分くらい書いたかと思います。残り半分は『気づきのお手伝い』と密接な関係が出てくるため、どうしても流れとして今までの内容が必要な部分もありました。

 93年12月に育朗さんの講演会を開催したりしていましたが、会場に入りきれず、人があふれてしまいラッシュ時の満員電車のようでした。それに同じお話しを何度もしてもらうのは申し訳なく思いました。
 今まで代官山yoyoでは20〜60人くらいの講演会などは開催していたのですが、何百人もの会場を今まで借りたことはありませんでした。

 思い立ったら吉日。まず会場を確保します。次に愛さんに足立さんに電話してもらう。この時点で愛さんに(皆さんは通常は上司や親)あれこれ言われることは覚悟しておきます。
 『まったく、翔太は頼んだ事はやってくれないのに、勝手なことばかりやるんだから、だいたいそんな大きな会場で(うちでは)やったことないんだし、有名な人ならともかく、足立さんは無名なんですから!』
 あの頃は足立さんの事を知っている人なんてあまりいないからしょうがないよな。と思いながらも、とにかく、ここは現実化するために耐える。(忍)の一文字です。

 『でももしムリだったらいいけど、とにかく電話してよ〜』『まあ、足立先生がOKしてくれればね』(愛さんは“足立先生゛と呼んでいます。)『じゃあ電話してくださいよ〜今!』『まったくあんたは勝手なんだから…』といいながらも、電話をしてくれる愛さん。エライ!

『もしもし、足立先生ですか?(省略)…まったく翔太はどうしょもないので(関係無いよ!)…足立先生に講演してもらいたくて、大井町の会場を予約しちゃったって言うんですよ!』とか話している。『えっ!本当ですか!この日のスケジュールが空いているんですか?(大井町で)やる必要があるんですか−!』と会話が盛り上がっています。

 大成功!きっとコツは直観で入った事を躊躇しない…のかなァ。
 そして現実化するための手間暇を惜しまない…という事でしょうか。あと大切なのは【工夫】かもしれません。

 他の事でもそうなのかもしれないですけど、講演会をするのは、その地域の調整と講演会等に関わるスタッフの学びになるのでした。
 もちろん参加する事により『気づかれる人』もいますが、リスクを負って、決心して、実行する事が大事。と言う事が後になって解りました。

 “スペースSACHIの武藤さんが『(スィエポンエヴァを)設置してくれる人の中で必ず“核”になっていく人がいると思いますよ』という伏線を設けておいたのですが、まさにそのものです。別に武藤さんが言っていたからではなく、何となく自分で感じていました。(結果的に)
 理屈で考えるのではなく、自然に行動してしまっている。
 なんと言ってもあの頃は、スィエポンエヴァはおろか、『波動の法則』さえ発売されていない頃でした。(時間が前後していてすいません)

 しかし、必ずチケットを購入する人の中でお節介な人と言いますか、リーダー的な人がいるのでした。この人達に【活躍】してもらいました。 
 結果として本人たちも楽しめて、私もやっていて楽しかった。決して楽ではないのですが結果として『楽しかった』のです。


 この世の中ほとんどの事は自分だけでは出来ません。しかし、先に決心在りき。前のページのスィエポンエヴァの事より前の出来事でしたけれど、後から『ああ、それを実行していたんだ』とその時確認しました。
 もちろんこの事だけでは在りませんが、結果として『素晴らしい製品の流通』と『気づきのお手伝い』の一端ともなりました。

 セオリーにも『選択と集中』というのがあるようですが、やりたい事、やる必要があること選択して(直観)集中して実行する(顕在意識…調和した)。現実化のための工夫するのです。
 最初に自分がどうしてするか、という事が大切かと思います。でも気づいたら、その時点で方向転換してもいいとは思います。

 その時に直観を使おうとするのですが、何が直観で何が思いこみかわからなくなります。
 そんな時は、これは自分のためだけなのか?、自分の家族だけ、自分の会社だけ…と考えていくと、だいたい直観なのか、思いこみなのかがわかると思います。

 余談ですが、これは私のエゴが30%くらい増幅しているのですが(何か若林さんの文章に似てきている…)。(念のためジョークです)
 私がやろう!と言い出してしまった94年の5月に逗子で行なわれた足立さんの講演会の収録したビデオから森眞由美さんがテープ起こししたのが、PHP研究所から発売された『波動の法則』だったのです。
 講演会のテープ起こしたもの、とは聞いていたのですが自分が中心となって収録したテープが本になっていた事は、最近知りました。
 友人の秋吉さんが最初に気がついたのでした。思わず愛さんにそのことで電話してしまいました。


 私は91年頃から、『今、本を書いているんですよ』と聞いていまして、何時かな、と待っていたのですが、中々出ませんでした…。それで、やっと発売されたのが『波動の法則』でした。

 『波動の法則』を読むと、『あれ?』と拍子抜けしてしまいました。と言いますのは、足立さんから『地球の歴史について、書いているんですよ』『48億5000万年前から、5000年前までの分は書き終えたのですけど…』『5000年前以降を書こうとすると、調べなければいけないことが、沢山出てきて…』と聞いていましたので…、しかし『波動の法則』の内容の何処を見ても、“地球の歴史“について載っていない…。
 それは後に(98年6月)発売された、『真地球の歴史』のことでした。ちなみに『波動の法則』に付けられていた元の題名は「現代地球文化とその未来」だったそうです。

 その後、98年の10月頃まで、各地で決心された方達によって、全国で何十回と足立さんの講演会が行なわれて来ました。
 これも後でわかったのですが、講演会によって、その地域の調整となったり、なにより主催された方の結果として『学び』となったようです。

 どのような事か具体的に、この文化的に言いますと『決心する』といった事でしょうか。
 『(自分が)最後の一人となってもやりますか?』『その覚悟がありますか?』と言う事を、現象の中で問われて、例えば、自分で主催したら、会場のこと、集客その他、もろもろ…。
 『一緒に主催しよう』といっていた人が、途中でマイナーになってしまって、結局自分一人で決心しなければならなくなったり…。
 ただ、それを乗り越えた人たちは類い稀な体験をされていました。

 お話しが余談になってしまいましたけれど、何十回と講演会がたくさんの人の手によって行なわれて来ました。
 98年以降は、そうした気づきを現実の中でクリエーションして行くと言う事が大切なのかも知れません。

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足立幸子さん
 コスミックアーティスト・画家。『あるがままに生きる』という約9年で23万部売れているベストセラーの著書がある。
   →『あるがままに生きる』を購入
→足立幸子の作品を見る。

足立育朗氏
 形態波動エネルギー研究所の所長。前出の足立幸子さんの兄のひとり。著書「波動の法則」はベストセラーになっています。
  →『波動の法則』購入のページへ
  →『続・現代地球文化とその未来』購入のページへ
 


ケラエノ(セラエノ)
 【注】ケラエノ(セラエノ)…プレアデス星団の地球に深い縁があるアトラス、ケラエノ、アルシオーネ、マイア、タイゲタのうちのひとつ。 今から57億年前に誕生して、現在の地球より3650年進んだ文化を形成している。太陽系の中では地球以外に火星とも関係があるようです。関連事項⇒『真地球の歴史』PHP研究所


 

 


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