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*   VISION TO THE FUTURE 3 *



懲りない人たち

 ヒーリングヒル逗子yoyoでは当時、月に一度『シフトアップの会』という催しがありました。毎回様々なジャンルの講師の方をお招きしてのお食事と講演会といった構成です。

 96年12月のゲストは『ぶちかまし』の項で登場し活躍(?)された若林明彦さんでした。ろくでも無い事になるのでは…、という懸念とクリスマス間近でしたので、(?)途中で抜け出せるようにセッティングしておきました。

 私はまだ2.3回ほど会っただけだった、大井町のyoyoでクレジットカードで買いものをしまくってる(という表現が適切)秋吉正夫さんもスィエポンエヴァを引き取りにやって来ました。
 前日、彼と大井町で初めて会った時『秋吉君、今個人が出来る最大の地球への貢献って、これじゃないかな』ということで、スィエポンエヴァの事を教えてしまいました。
 そしたら『俺、今仕事していないし…』とつぶやいた。『仕事していない人が毎日買いものしてるなよー、何考えてるんだ−』という思いと『やべー、20万もするものを薦めちゃった』と思ったのですが、彼は真剣に考えていたようです。
 後日聞いたら、破産してもいい!という覚悟で決心したらしいです。でも、その後無くしていた通帳が見つかって、何とか助かったようです。やっぱり決心先有りきなんでしょうね。(無茶なまねはやめましょう)

 若林さんは食事の時から秋月さんと『酒は飲んだ方がいい!』とほえながらいました。とうとう講演が始まってもお酒を飲んでいます。『お酒を飲みながらでも素晴らしい講演が出来なければ、プロじゃない!』と語っていました。(最近は少し弱くなったようです。)


 挙句の果てに秋吉君は、講演の最中に秋月さんと若林さんの酔っ払いコンビに捕まって(?)、『若いのに仕事をしていないとは何事だ!』と二人に詰め寄られていました。とてもかわいそうでした。
 しかし、彼は先程の決心あって(?)か、この一ヶ月後に(株)未来さんに入社しました。(2004年現在はタイにいます)

 シフトアップの会を早々抜け出して、事前にスケジュールに入れておいたクリスマスパーティーに向かいました。
 代官山でのクリスマスパーティーがあったので『一人でも多くの人にスィエポンエヴァを、とにかく見て触れられる機会を』と思い、駆けつけました。

 パーティ−も楽しく中盤にさしかかった頃、逗子から秋吉君がやってきました。一切打ち合わせはしていません。
 それどころか、『これからどこに行くんですか?翔太さん?』と聞かれても、はぐらかしていました。
 何か縁があったのかもしれません。それでもまさか、クリスマスパーティーの会場で会ってしまうとは、悲劇…いや、嬉しいことでした。


心の砂漠

 2回目にアメリカへ行った時は、国際免許をとって行きました。場所はアリゾナ州のツーソンと言う町です。
 スターウォーズの撮影とかでも使われる、砂漠地帯と言いますか、とにかく暑い。しかし、湿度が低いのであまり辛くないのです。
 反対に夜は涼しいくらいです。しかしその夜に洗濯物を干して置くと、2.3時間で乾いてしまうのです。

 車を運転しながら、サザンオールスターズの『サ吉のみやげ話』と言うビデオがあるのですが、思わず桑田佳祐のジョン・レノンに捧げられた『Dear John』という曲を口ずさんでいました。
『君の声がする方へ幼い頃誘われて…♪』夕暮れの中、路肩を見てもサボテンが植えられているだけ。岩肌が見えそうな大地。
 時折、緑…というか草があるだけ。こんなに広いのに何も無い。こんな風景は何故か夕陽が似合う。

 日本ならばアスファルトの隙間から生える雑草(人間がそう呼ぶ)だってあるのに、舗装されていない地面なのに土や岩肌が露出している。
 砂漠だから当たり前ジャンと言われてしまえばそうなのですが、とても寂しい気持ちになりました。
 そして日本は恵まれている。というのを自覚せざろう得ないのでした。

 サハラ砂漠とかも昔は緑豊な土地だったそうです。
 わざわざ王家の墓を寂びれたところに作らないですよね。でも、自分だけが…という心が蔓延した結果、砂漠になってしまうようです。
 鉱物でのスタディしか出来ない地域になってしまうそうです。
 植物が無ければ、人や動物は暮らせない。植物さえ生きられない地域が砂漠と言うそうです。だから心を砂漠にしてはいけない…。


今、この瞬間…

誰かがあなたのことを考えている。
誰かがあなたをとても誇りに思っている。
誰かがあなたの強さに感心している。
誰かがあなたの成功を祝っている。
誰かがあなたの幸せを願っている。
誰かがあなたの気持ちを大事にしている。
誰かがあなたを信頼している。
誰かがあなたから信頼してもらう必要がある。
誰かがあなたの事を気遣っている。
誰かがあなたが泣くために胸を貸したいと思っている。
誰かがあなたが困ってない事を願っている。
誰かがあなたを守りたがっている。
誰かがあなたのためなら何でもしたいと思っている。
誰かがあなたのことを感謝している。
誰かがあなたを必要としている。
誰かがあなたの行動に感謝している。
誰かがあなたの助言や指導を求めている。
誰かがあなたの助言を大事にしている。
誰かがあなたに許してもらいたいと願っている。
誰かがあなたの許しに感謝している。
誰かがあなたのおかげで生きている。
誰かがあなたを心配している。
誰かがあなたがいなくて寂しがっている。
誰かがあなたに会いたくてたまらなく思っている。
誰かがあなたと一緒にいたがっている。
誰かがあなたのために時間を作りたいと思っている。
誰かがあなたの手を握りたいと思っている。
誰かがあなたを両手で抱きたいと思っている。
誰かがあなたの両手で抱かれたいと思っている。
誰かがあなたに贈り物をしたいと思っている。
誰かがあなた自身が贈物だと思っている。
誰かがあなたの事を考え微笑んでいる。
誰かがあなたと一緒に笑いたがっている。
誰かがあなたと思いきり遊びたいと思っている。
誰かがあなたと夢を分かち合いたいと思っている。
誰かがあなたに見つけられたいと思っている。
誰かがあなたが気づいてくれたらと願っている。
誰かがあなたを待っている。
誰かがあなたを愛している。
あなたが誰かを愛している。



デンジャラス

 アメリカ編(?)ラストです。 私の好きなデンバーで3回目の仕入れの時、同業者で知っている女性とたまたまホテルが一緒でしたので、今回の行動を共にしていました。
 彼女はアメリカの地理にも詳しく、ベジタリアンなので彼女の行くレストランは私も安心なのでした。
 なんと言っても朝食に車で片道30分かけて行きますから…。でもそうしたオーガニックレストランがおいしいのです。

 アメリカの人はこうしたことに気を使う人とそうでない人が極端ですね。ビタミン剤などのサプリメントもたくさん出回っていますし…。余談ですがこうしたビタミン剤はあまり役に立たない事もある程度認識されているようです。

 アメリカの料理はほとんど塩と胡椒とケチャプとマヨネーズかと思うくらい、味付けが一緒です。アメリカの人やそれが好きという人には悪いのですが、毎日だと耐えられなくなって来ます。

 ツーソンに行った時、何故か左の足の付け根が痛くなってしまいました。日本に戻り、診てもらうと乳製品の摂り過ぎだったようです。
 ほとんどの食事に使われていて、自分では乳製品を多く取ったつもりはなかったのですが、知らない間に摂り過ぎていました。

 前回の事もあって、食事には気をつけたいと思っていました。
 彼らは朝からTボーンステーキとパンケーキ(肉と砂糖)をバクバク食べている。私は肉を食べられない(子供のころから嫌い)ので、アメリカでは食事に苦労しました。


 そうしたアメリカでの認識の一つにマイクロウェィブの危険性というのがあります。
 アメリカの一般家庭においても常識となりつつあるのですが、要するに電子レンジなどの電磁波のことです。マイクロ波というのですね。

 あるレストランの中に隔離された部屋があったのです。イメージ的には病院のレントゲン室のようでした。
 密閉されていて、鉛が壁に挟まれているかのような作りでレントゲン室の“使用中”のランプのように“デンジャラス”“ ゲットウェイ”の文字が書かれたランプがあった。

 そして時折その“デンジャラス”のランプが灯るのでした。これらを演出としてやっているようには思えませんでした。
 危険だから使用中は近づくな!という、警告ですよね。

 日本での認識と大違いというか、進んでいるんだなと思いました。今外食産業でも、家庭でも電子レンジを使っていないところはほとんど無いかと思います。
 最近のニュース(2000年8月)でカリフォルニアでは、携帯電話にイヤホンを使用していないと罰せられるようになるらしいですね。
 これも本質的な解決にはなっていませんが、問題意識があるだけ進んでいるんでしょうか。(それとも自分を守りたいだけ?)

 先ほどのデンバーのレストランも(デンジャラス=危険)とわかっているのに、どうして使用そのものを止めないのかな。不思議ですね。

→電磁波について(ハーモニーライフのHPですが…)


ジュピターの死

 ジュピターは96年の暮れに突然、腎臓が悪くなってしましたので、当時住んでいました葉山の家に連れて来ました。東京では、もし死んじゃっても、どうにもできなかったので…。
 近所(葉山)の病院で診てもらったのですが、治療が難しかったようです。一週間ほどで死ぬでしょう。と言われていたのですが、二ヶ月くらいジュピターは頑張って生きていました。
 愛さんの理解もあり、点滴をしながら家とyoyo(仕事をしながら)で一緒に過ごしていました。

 97年2月2日、10時間以上一緒にいられない日があったのです。
 もういつ死んでもおかしくない。
 毎日朝起きて、そしたらジュピは死んでいるかもしれない。『あァまだ生きていてくれている』と毎日確認する事が毎日一番目の想いでした。
 そんな中で、10時間も離れているなんて…。お水すら自分では飲めないし、咽喉が渇いたらどうしよう?
 無理に生きていなくてもいいから、でも出来れば帰ってくるまで待ってるんだよ、って言い聞かせて…。
 仕事が終わり帰ってきて、『あァまだ生きている』と確認出来た時は嬉しかった。すがるような目をして…。何もしてやれない。

 そして、冬の在る日にいつものように日向ぼっこしながら、お水を飲ませていると、突然痙攣を起こし、一分もしない内にジュピは死んだ。だんだんと冷たくなり固くなって行く。
 白いレースに包みまれ。もう起きる事は無い。
 苦しさから開放されて…。逗子の土となって…。


Dear Sachi(原題Dear John)

桑田 佳佑 作詞 只野 翔太 補作詞 桑田 佳佑 作曲

君の声がする方へ幼い頃誘われて
Oh,My Dear もうここにいない
本当の愛と調和を(言葉で夢と恋を)教えられた日々が
心の奥に今も蘇る Infinite Cosmic Consciousness(Strawberry Fields)

優しさばかりじゃなく 厳しい本質でいい
(強がりばかりじゃなく ときめく弱さまでいい)
Oh,My Star 輝く星よ
住み慣れた街でたぶん忘れられぬ Machida(Riverpool)

突然あの日が来たね 何もかもが NO reply to ME
本質に生きる時 くじけそうな時 (夜のとばりに痛みが走り)
きっと時空間【ここ】に いてくれるような(その手の先を一番好きな女性だけに)
ただ…ただ… 深く気づくだけ (闇を切る音 彼女の前で)
Just with you,baby もう一度逢いたい Sachi(Johny)

君がいない世界が誰かに汚されないと
Oh,My word 今はもう言えない
人が互いのために大事にするものが
大人になるにつれて少しずつ忘れる(だけ感じる)…Love

 
  サザンオールスターズのアルバム【人気者で行こう】より、バラードのナンバー。この「John」は元ビートルズのジョン・レノンのことですね。桑田佳佑さんが音楽家として尊敬している彼にささげた曲。私が高校生の頃、発売され、当時から何となく好きだった一曲です。
()内の言葉が原曲の詩です。


コミュニケーションについて

 以下の文章は江嶋こと枝さん99年12月に依頼されて書いた物です。
 コミュニケーションって、日本人は基本的に苦手じゃないかと思います。それに『奥ゆかしさが美徳』とされてきた歴史があります。私自身もとても恥ずかしがり屋です。

 以前[94年頃]に足立さんとの会話です。
翔太 『お互いに解り合えているっていうのは大変みたいですよ。先日、(自称)本質でコミュニケーションをとっていて、 お互いに相手のことが見えてわかっているという、夫婦か ら聞いたのですが、喧嘩すると本当に大変だと言うのです。 何故かって尋ねたら、お互い考えていることがわかっ しまうからだそうです。憎しみの言葉や、怒りが伝わって しまうそうなのです。』

足立さん 『そのご夫婦は本当には理解しあっていないのです。もし本当に解り合っているのでしたら、相手の状態が本当に捉 えていれば、もし相手が怒っていたとしても、受け入れられるはずなんです。』

 これはかなり前の話ですので、表現がちょっと違うかもしれませんが、おおよそこのような会話でした。かなり多くの自分[達]は理解しているという誤解の元でコミュニケーションが行なわれていることかと思います。
 こうした現状を踏まえると、人との関わりに工夫をしていかないとならないようです。それと一緒に本音ベースで付き合えるようになるといいですね。

 今の社会習慣の中にいると、人と人とが本質でコミュニケーションすることが殆ど出来ない状態になっています。
 顕在意識だけで望んで、本質的なコミュニケーションをすると、慣れていないので大変なことになります。
 私もしばしばその憶測を誤ったり、無理かなと思いながらも“ぶちかまし”をしてしまったりしています。

 本質でわかっている同志では、相手の感情的なものを考えたり、順序立てて伝える必要はないと思いたいのですが…。(どうも違うみたいですね)しかし工夫は大切らしいです。

 デビックの大切さはわかっているつもりですが、『そういうことは、もっとデビックして言ってよ!』とか言われてしまいます。
 でもデビックはしてもらう事じゃなく、自分がする事なのでは…と思います。自分も至らないんで、困っています。
 仕方ないのかもしれませんが、きっと、この人はもうこのくらい、気づいていて、大丈夫なはず。という、私の希望的観測からのミスですね。

 でも、僕だって、『愛』とか『調和』とか『感謝』とかを口にしたり、そういう方向に向いているように見えたりする人にしか、そうした態度をとりませんから…。
 これは子供の頃から、親や、先生、先輩、会社の上司は自分より、正義観あふれている人しか認めない。という性格でした。
 おおらかに受けとめられるようになりたいですね。
 あれ、話しがずれましたけど、コミュニケーションの話でした。


高山への道

 98年の11月に高山で『金星EVHAの歴史TUV』が開催されていました。Tのみとか、T、Uの展示会は全国各地であったのですが、Vに関しては、この11月に高山でのみでしか、見る事が出来ないので、みんな全国から色々な人が、連日訪れていたようです。

 私もアオバの西沢頼母さん、桜井英樹さん、田中裕己さん、吉田納可子さん、鈴木千鶴さんたちと車2台で行きました。
 一ヶ月前に同じ道で高山に行きましたので、油断していました。山道で登りカーブを曲がると、それまでなかった雪が積もっています。

 しかも登ったあとなので、もちろん下り坂。ハンドルを取られて、対向車線に入ってすでに停車していた車に突っ込んでいきました。
 私の車には、西沢さん、吉田さん、田中君とが同乗していました。相手は60代のご夫婦でした。幸い怪我などは誰もなかったのですが、交通法規上10・0で私の過失でした。

 車は2台とも廃車となってしまいました。
 しかも最悪だったのは、任意保険がちょうど切れてしまっていたのです。自分の車はともかく、相手の方は何とか保証しなければなりません。でもどうしょもありませんでした。

 そんな時に、アオバの白井常雄社長(現会長)が『翔太、おまえ金に困っているのか?どのくらい必要なんだ?』とサポートしてくれました。
 あの時は本当にどうしようかわかりませんでした。
 とてもありがたかったです。何とかお返ししようと頑張ってはいるんですが…。も少し待っていてください。(少しずつお返ししています。寛大な方です。感謝しております)

→金星EVHAの歴史のポストカードです


京王線での出来事

 京王線(新宿発)の車内での出来事をお話します。家に帰る電車で見た光景です。私が電車になった時は、満員ではないのですが、すでに席には空きが無かったので、立って乗ることにしました。
 電車内は…皆さんも経験があるかと思いますが、個々の人が、周りの人にあまり関心は無いようです。電車内でも、新聞・本を読む人、ウォークマンを聞く人、寝ている(フリを含む)人…様々です。

 そんな車内に、汗だくになってホームから乗ってきた(多分)30代の男性で松葉杖をついた人がいました。
 私は席に着いていないので『(座っている誰か)彼に気づいて、譲ってあげないだろうか…』と思いました。しかし誰もが周りの人に関心が示さず、怪我をした男性に気づきませんでした。

 私は『(座っている人たちに)どなたか怪我をされている方に席を譲って貰えませんか?』という言葉がノドにまで出かかったのですが、恥ずかしさや、『もし座っている人で、具合の悪い人がいるかも…』とか、『立たなかった人は、居心地悪くなるかな』と思い、何も言えずにいました。

 そんな中で、やはり私と同じように立っていた男性が、その怪我をしている人に話かけました。『(怪我をしていて、立っているのは)大丈夫ですか〜?』と。怪我をされてる方は、申し訳なさそうに『ああ、大丈夫です。』と応えていました。

 その時ですが、(確か本を読んでいた)一人の女性が、怪我人に『すいません、(あなたが怪我をしていることに)気づきませんで…』と、サッと席を立ち、譲りました。


 僕は自分の不甲斐なさと、勇気のなさ、そして声をかけた男性、席を譲った女性のやりとりに少し感動していました。
 きっと座っていた人の中でも、同じような思い…『自分が気づいてあげられなかった』という気持ちになっていたのではないかと思います。

 そして、声をかけた男性の工夫には脱帽でした。誰も傷つけず、周りに気づいてもらえるサポートと情報を提供していました。
 もう一つは声をかけた人も私も、『席』を持っていませんでした。私は出来なかったのですが、彼は『席をプレゼント出来た』という点です。

 私達は常に『本当はこうした方がいいかな』と、直観で入ってくるのに、いつもあれこれと頭で考えてしまい(考えない方がいいのに)、自我が、『時間が無い』『お金が無い』『仕事がある』『家族が…』というふうに、調和のとれた行動をしようとしても、せっかく気づいても、打ち消してしまう事が多いようです。

 『時間が無い』『お金が無い』『仕事がある』『家族が…』を『出来ない理由』にしてしまう事が多いのですが、声をかけた彼は、『自分の座っている席』が無いにもかかわらず、席を作ってあげていました。

 決心・行動というのは、きっとこうしたささやかな事からでいいのでは…と思います。本質的にはたくさんの人が『本当はこうかな』という…気付くこと=(調和のとれる方向のことを)やりたくなっちゃう状態…になることが大切かと思います。


決心実行し続けると…

 私の目が…従来1.5くらいの視力だったのですが、3〜4m先がぼやけて見えるようになっていた時がありました。
 確かにパソコンの電磁波など、環境的に誰もがそのような事が起こりうる要素はたくさんあるかと思いますが、いきなり目が悪くなったので、かなりあせっていました。

 視力の1.5だったのが、かなり落ちて(調べてなかった)例えば駅構内で遠くの案内が見えにくく、早急な決断が出来ず知らない場所などでは非常に歯がゆい思いをしていました。
 『パソコンの使いすぎかな…』かなり急ぐ必要がある作業が山積みでしたので、そんなふうに解釈(本質的な問題から逃げていた)していました。まったく人間は自分の都合の良い受け取り方をしてしまいますね。

 たまたま樹生建築研究所でお仕事している方と電話していた時、彼女が『チューニングしておくね』と調べてくれました。
 後日電話を頂き、『プライベートではなく、仕事上の事でなんかあるみたい』と教えてくれたのですが、分かりませんでした。

 視力測定表で片目づつ見てみますと、0.8くらいまでしか見えませんでした。視力の弱い人には申し訳ないのですが、私にとって0.8というのは初体験の世界でした。『このままもっと目が悪くなったらどうしよう』と、文字通り目の前が真っ暗になりました。

 別件でお会いしていた足立育朗さんにも『最近目が悪くなって…』と相談…というか聞いたら、足立さんは以前0.01の視力だったのが、現在は0.8〜1.4(って視力の測定表にないんですけど…)になったそうです。コンタクトをしなくなったそうです。


 なぜかと言うと、それは『決心して行動することを繰り返した』からだそうです。
 そして『翔太君も決心・実行すれば、すぐに元のように戻ります』って言われたのですが、その時は『そんな事言ったてさ〜足立さんは出来ても、僕はそんな簡単にできねーよー』とか思って、でも(目の事だけではなく)出来る事はやっていこうと思いました。

 その後、私も『もうこの人と関わっても長い期間気づかないし(自分の事はさておき…)だるいから、もういい!』と思っていた人にしっかり関わる決心そして実行の一部(ほんの一部ですけど)をいたしました。

 結論からいって『問題から逃げても逃げられない』『きつい事からしか学べない』のです。だから彼と関わる事は、好きとか嫌いとかではなく、役割でしたので仕方がないのです。
 結果的に彼を説教している(やりたくなくても、する必要があることをしたら)と、目が悪くなっていたのがハッキリと遠くまで見えるように回復したのです。
 みなさんに『証拠』としてお見せできないのですが、二日前には0.8だったのが元にも戻ったのでした。

 もちろん今も懸案事項、必要性にせまられている事がたくさんありますが、とにかく出来る事から発振し、決心実行していきたいと思っています。いい加減な私が体験した事です、皆様には楽々と出来る事かと思います。 

 決心と実行していくことってとても大切だと思いました。


僕達のエネルギー
 ProjectDMM 作詞・作曲 大門一也

そうさ地球に生まれてよかったと思うよ
それが明日への僕らのエネルギー
だからきっとわかり合える世界にするために
溢れる情熱を思いっきり解き放とうよ

果てしなき道 平じゃないと 気づき始めてる
向かい風にも 希望を抱いて 歩き続けよう

そうさ地球に生まれて生きてる誇りが
たった一つの僕らのエネルギー
だからきっとわかり合える世界にするために
溢れる情熱を思いっきり解き放とうよ

暗いニュース流れる町 ちょっとめげるけど
今日も空は青く輝き 回り続けてる
人は一人じゃ 生きられないと 気づき始めてる
心と心 奏でる未来 どんなハーモニー
だからずっとずっと美しいこの星守るため
小さなことでいい出来ること今始めよう

(アマゾンでCDを購入出来ます ウルトラマンコスモス SONG COLLECTION)


東京から福島県喜多方市への移転

 実は数年前から『自給できる環境で生きていくのが人間的なのでは…』 という思いを抱いていたのですが、私も東京で生まれて一時期は神奈川にいたのですが、地方での生活というのは自分にできるのだろうか?という不安なども同時にありました。

 持ち家の方は考えたこともないかと思いますが、特に東京などの都会で生活されていると、『家賃のために働いているみたい…』という方がたくさんいらっしゃいます。子供の頃は裸一貫で上京してきた父親が町工場を経営していて、家があったのですが、高校時代にその父親がガンになってしまい(私が20歳の時に亡くなる)、それまでには考えた事のない状況となってしまいました。

 それまでは小さいながらも持ち家で、アパートなどで生活する事は考えていませんでした。当たり前の事なのですが、環境が変わるとビックリですよね。
 今の社会は不必要最大限に求めてしまうのかもしれませんが、必要最低限で生活できたら楽しいと思いまして、勇気を持って踏み出しました。

 実はこの少し前に、自信のなくなるような一連の出来事が重なり、肉体的にも精神的にも時間的にも金銭的(これはいつもですね…笑)にも大変で、とことん自信が欠落して(でもそんな素振りはみせない…見栄っ張りですから)いました。
 でもとても信頼する方から、『福島に行くのはいいじゃないの』と聞いたので、一連の体験も“お試し”なのかなと思い、クリア出来てないのですが、今も取り組んでいます。


 でも、私も自信満々なわけではまったくありません。やったことないことですので、大変かと思うのですが、ただ『ああ、この方向でいいんだな』という何となくの…うまく表現出来ないのですが、やれる自信ではないのですが、その確信(根拠があまりないのですが…笑)があるので踏み出せるのかもしれません。

 出来るところから少しずつやっていきます。そして『あのしょーもない翔太に出来たんだから、私にも出来る』と思えるような内容を、これからもお伝えさせていただきます。

 2002年の6月に秋田でお米作りをしている堀井さんのお家に遊びに行った時に、『ああ、こういう生活もあるんだ』 という、体験をさせて頂きました。そして、堀井さんの中学生と小学生の子供たちに『大きくなったら、何したい?』 と質問したら、『俺〜、お父ちゃんと一緒に米作りたい』 という答えが即座に返ってきました。専門学校に通っている長女も、同じように素晴らしいと思える回答が返ってきました。

 今…学生や子供たち、さらには20代、30代の世代も『何をしたら、何をしたいのかわからない』 という人が大半かと思いますが、秋田でカルチャーショックを(笑)受けました。
 確かに、今の日本(世界)で心底やりたいことを探すのは(自我と欲を追求していくことは可能ですが…)とても困難かと思います。ですから、『わからない』と応える人も仕方ないと思いますし、ましてや責めるなんてことはできないかと思います。

 東京にいた時、私も週に二回くらい電車に乗りますが、満員電車…イライラしている雰囲気たまりません。ふと『どうしてこういう生活を続けているんだろう』 と人事ながら考えてしまいました。『この車両にいる人のほとんどは毎日こういうことを生活の一部としているのは辛くないのかな?』『どうしてここまで大変(私には思えるので。好きな人はいいのかと思います)なことまでして、会社に行くんだろう?』とまるで子供のように考えました。

 会社に毎日行くのは…おそらく、お給料をもらうため。というのがパーセンテージで大きいのかもしれません。『でも、他に方法はないの?』と考えてしまいます。

 高校に行っていた時からバイトしていたので、そのまま辞めてからも働いていたのですが、もう18年も経つなんて時間の過ぎるのは速いです。…ちょうどバブルの時期で多くの人が『もっともっと』と色々な面でエスカレートしていった時期でした。

 自分もその中にどっぷり浸かっていたのですが、そうした生活…会社、仕事とかに疑問を感じて、『何か違う方法(生き方)があるんじゃないか』と思った時期がちょうど90〜91年でした。その年の6月に代官山にあったYOYOというお店で働くことになりました。

 12年前に『何か人や社会の役に立つ仕事をしよう』 と思ったのです。…というより、他に出来ない(もちろんたくさんの迷惑は今でもかけまくっているのですが)、違うと思える事は出来ないのです。(ただし、クリエーションするのに必要と思うことであれば、見栄えとして違って見えることでもやってしまうのですが)


 以前、地球環境問題のお話の中で『日差し、広い庭、笑い合える家族…日本人が求めるものはすべて、南米のアマゾンにとかありますよ』というような事を伺ったのですが…何のために働いているの? →家族の幸せのため→そのためにお金がたくさん必要→だから人より多く欲しい→いい会社→そのためにいい学校→…のような図式が意識しなくてもしみ込んでいるのではないでしょうか?
 お給料もらえなくても会社に行きますか?満員電車で毎日。…そうしたら行かないですよね。(笑)

 そこまでして会社に行く、だから→ストレスがたまる→ストレスを解消したい→レジャーに時間・お金をかける→だから、益々お金が欲しい!…何かあった時のために(そりゃ大変ですからね)保障が欲しい…際限なくなってしまいます。
 私はわざわざ旅行とか行きたいと思いません。普段の生活で楽しめるから。行く必要があれば行くのですが、個人的に『行きたい』というのはないのです。
 話が脱線してしまいましたが、出来るだけ自分に必要なものは自前で用意できる状態であればいいなと思い、少し農業も(あくまでも『農業も』なのです)出来るところに移転したいと考えていました。

 最近は『スローライフ』という言葉がもてはやされていますが、調和のとれた生活を…自然な生活を送れるようなコミュニティーが作れたら(もちろんすぐに出来ませんが)いいなと思っています。


森の民の話

 森に信頼をよせる『森の民』の世界観は、この宇宙の太陽を含め、命あるものすべてが、永遠の再生と循環を繰り返していることを縄文も弥生もケルトもネイティヴアメリカン(アメリカインディアン)もオーストラリアのアボリジニも、こうした自然のしくみを感じて生活を送っていました。

 人類の分明史にはこうした森の民とは異質の文明の系譜がありました。森と共存をすることなく(いい悪いではないのですが)生きてきた、『家畜の民』の文明系譜です。
 …もちろん日本人も牛や馬を飼っていたのですが、一番の目的は『一緒に田畑を耕す』ことでした。食べてしまうことをメインの目的とした『家畜の民』と発想が異なります。

パンを食べ、ミルクを飲み、肉を食べる『家畜の民』は、メソポタミア文明にはじまり近代ヨーロッパ文明へと受け継がれ、ついにはアメリカ文明を生み出した文明の系譜は、森を食いつぶした。羊ややぎの家畜が森を食いつぶしたのです。森との共生を拒否し森を破壊してきました。

 『家畜の文明』は同時に、万人が万人を疑う社会を構築しました。このために法律・規則・契約による約束事の上に成り立つような社会が出来上がりました。みんなが

 万人が万人を疑う社会で育った『家畜の民』と人や自然を信頼する『森の民』が出会った時、どちらが勝利するかは明白でした。その上『家畜の民』は人殺しのための金属製の武器を持っていました。
 『森の民』の文明は『家畜の民の文明』の下に、次々と抹殺され歴史の闇の彼方に葬り去られました。

 そうした代表例が、家畜をつれたヨーロッパ人の入植によって、駆逐されたネイティヴアメリカンの文明です。ヨーロッパ人がネイティヴアメリカンを騙し、征服するのは非常に簡単なことでした。

 ネイティヴアメリカンによって一万年以上にわたって守られてきた原始の森は、それからわずか300年で80%以上が破壊されてしまいました。『家畜の民』の拡大は、森の破壊と同時に進行しています。

 同様の事は中国でも起こっています。
 『家畜の民』の漢民族の爆発的拡大によって、『森の民』の少数民族は、雲南省や貴州省の山岳地帯へと追いやられました。そして漢民族の拡大の痕は、森の木一本残らず破壊されたのです。
 残念なことに今は森を破壊尽くした家畜の民。過去20年間における家畜頭数の爆発的増加…。

 この数年間に、狂牛病のような…牛を通して強烈なメッセージを受けています。牛と言うのは草食動物です。人間の都合によって、人間が『早く、大きく、たくさん』という事をこの何百年間も続けています。

 科学者も技術者もあらゆる自我と欲を満足する事を続けています。
 きっと人間は牛(や家畜)の肉や、牛乳を食べなくても生きていけます。
 そのために草食動物である牛さんに、共食いをさせたり、あるいは羊の肉骨粉を与えます。人間の自我と欲は際限ないですね。

 まさに動物(厳密には植物や鉱物にも)を奴隷化しています。今は奴隷化というのを暴力でやらない形ですが、何らかの形でやっています。
 今、この地球で、森の民(だった?)としての日本人が何をできるのでしょうか。森がなくなれば、森の民…家畜の民も、人間だけではなく全ての生物が生きてはいけなくなります。


日本人は恐竜並にエネルギーを消費している!?

 このページを書いたのは2003年3月でした。関東地方では昨年11月頃から、『3年B組金八先生』シリーズが再放送されています。本放送で久しぶりに見たのは最後の第六シリーズ、2002年の三月に終了したのですが、金八先生は桜中学の養護の天路先生(賠償美津子さん…余談ですが、幸子さんのお通夜にみえてました。同級生だったようです。)と結婚して乙女と幸作というふたりの子供に恵まれます。しかも奥さんはすでに…遺影となっていました。

 再放送では見てなかった時のドラマなので、とっても新鮮に見ています。きっと画像から察するのは第三シリーズくらいからフィルムによる撮影からビデオ撮影になった感じがします。今のドラマはほとんどビデオ撮影ですが、どうも落ち着きません。

 第四シリーズでは桜中に戻ったところからスタートです。奥さんが亡くなって三回忌…長女乙女は桜中の3年生で幸作は小学生のようです。そしてなんと、宮沢歩君…最初の3Bのカップルから生まれた子が生徒として登場しています。この時点で、15年経過。

 前置きが長くなってしまったのですが、坂本金八さんが生徒に言っていた内容が非常に今の現状を(と言っても、黒板に平成二年とあったので、1990年12月)分り易く話していました。
 もちろん今とは社会情勢が違うかと思いますが、時期的にバブルの最終期で、当時、やはりブッシュ政権(父親です)による湾岸戦争への突入ムードの頃かと思います。


 坂本金八先生はこんな事を言っていました。
 『成人男子一日に2400キロカロリーで足りるのに、実は日本人は平均128万4000キロカロリー消費しています。必要量の535倍です。これは30m30トンの恐竜が消費するカロリーです。』と。

 続けて、『恐竜はその巨体を維持出来なくなって滅んでしまいました。私達人類がこのままでは恐竜と同じような道を歩んでしまうかも知れません。それを回避し、素晴らしい21世紀を創っていくには、私達が【恐竜をやめて人間】になることです。それはあなた達にかかっています。どうか素晴らしい未来を創って下さい』。

 多少言葉は違うかと思いますが、おおまかにはこのような事を言われていました。
 金八先生の内容は、いつも楽しみにしていたのですが、非常に今の現象をとらえやすくメッセージを伝えてくれました。全シリーズの脚本の小山内美江子(初期のウルトラシリーズに関与)のリサーチ力にはいつもながら驚かされます。

 【恐竜をやめて人間になる】。もちろん誰もそんなに大食漢と言う事ではなく、日常でカロリー換算すると日本人はたくさんのエネルギー資源を使いすぎています、という事かと思います。
これはとても重要で、私達みんな自覚し知っておく必要のことと思いました。


 また、その日の夜に何気なく見ていた番組で、バラエティだったのですが、何人かのゲストがいて、それぞれに自分の生まれた日の新聞が配られていました。各々、自分が生まれた日(時代)はこんなことがあったと騒いでいたのです。

 好みは別れるかと思いますが、YOUさんという…もし彼女が側にいたら苦手と思ってしまうようなキャラなのですが、彼女は自分の生まれた日の最高気温に驚いていました。
 くわしい日付は忘れてしまいましたが、1963年の8月下旬だったかと思います。夏休みが終わる時期です。

 40年前の8月下旬の東京の最高気温が23℃だったのです!確かに驚きます。昨年、2002年の夏は確かに暑かったのですが、おそらく35℃くらいはあったかと思います。

 私が小学生の頃(70年代後半)は、夏の一番暑いピークは一週間から10日くらいで、その都市にもよりますが、たしかに八月も後半に入ると、暑さもおさまってきました。少なくとも、熱帯夜なんてありませんでした。昨年は10月になっても暑かった(急に涼しくなって、秋という記憶がなかった)と思います。

 環境に関する番組や、情報でもないのに40年前と現在の温度差(東京地域の、一時期のものであっても)が話題になったことで、インパクトがありました。
 必要以外は(あまりストイックではなく)電気にしても、ガス、水道…その他の資源・エネルギーを無駄にするのはちょっと違うのかもしれませんね。

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3年B組金八先生
 1979年にTBS系で放送された学園ドラマ。

足立育朗氏
 形態波動エネルギー研究所の所長。前出の足立幸子さんの兄のひとり。
  →『波動の法則』購入のページへ
  →『続・現代地球文化とその未来』購入のページへ
 →1994.5月の講演録をダウンロードする。

スィエポンエヴァ
 半径500mの電磁波と磁気波を調整する変換装置

 →詳しいことを知りたい

若林明彦氏
 医療家。予防医学研究所の所長をされています。出会った当時は代々木の赤ひげ堂の副医院長として活躍されていました。著書『未来医療への扉 病気はメッセージ』はこれからの医療をあり方を模索している若林さんの書き下ろしです。→『未来医療への扉 病気はメッセージ』購入のページへ

 

只野翔太プロフィール

1968年6月28日 午後5時35分に東京・大田区に生まれる。
1975年 六郷小学校に入学。ニックネームは『にゃんこ』
1977年 小学三年生の春休みに六郷図書館で子供向けの環境問題
の本を読み、このままエゴをベースにした文化が続くと、
環境が破壊されて地球に人が住めなくなる事を知る。
みんなでタイムマシンを作るためにガラクタを集める。
1978年 四年生の時に交通事故に遭い、約半年間の入院生活をする。
1981年 南六郷中学校に入学。
1984 年 大森東高校に入学。85年5月に自ら退学
1987年 西洋占星学(星占い)を独学で習得。
本当に自分の信念(ロイヤリティー)とライフワークとしての自覚を持てる仕事をしたいと思うようになる。
1991年 代官山yoyoと翔卯で働き始める。
愛洋子さん、足立幸子さん、足立育朗さんとの出会い。
1997年 yoyoを退社。自身でできる事を模索。
1998年 6月に有機野菜宅配会社を退社し、個人での販売を開始。
1999年 8月に秋吉正夫さんと一緒に四国から東京を縦断。
2000年『誰でも出来る自然な食事と暮らし』を1000部作成
ハーモニーライフを設立
2001年『誰でも出来る電磁波と上手に付き合う方法』2500部印刷
     『続・現代地球文化とその未来』業者にて1000部印刷
2002年  通信販売業務を充実化 アネモネ誌などに広告を掲載開始
2003年  福島県喜多方市への移転。ホームページ開設。
IT部門を発足。2004年に向けて農研究部の設立準備


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